2015年6月19日金曜日

水準を変えて跳ね返る

インターネットの様々な記事を見ていて、"DQN"なるものがどうのこうのという記事が昔からよく目につきます。とりわけ、SNSなどで「いいね!」等を押すことで(気になるような書き方をした記事の)続き・結末を読ませるという、別目的がありそうなサイトでは、こういった記事が多数散見されます。「大事」とか「面白い」とか「義憤」で広めるのは個々人の勝手ですが、そこに思うことがあります。

水準を変えると、自分に跳ね返ってくるのではないのか、と。


この"DQN"なる言葉は、概ね非常識・粗暴等々の意味で使われているようです。どれが正解というような定義はないでしょうが、過去の裁判では侮蔑的な意味がこめられていると判断された例もあるようですね。

ここで、一つの例を考えてみます。
科学的根拠によって予測された、危険と判断される災害があったとしましょう。
これについて、科学的根拠を理解せず、非科学的な乏しい根拠に基づいて安全と判断し、それを流布したら?

わかりやすい例で言えば、台風が近くを通る予測があるのに、下駄を投げたら表向きだったから大丈夫と言って周囲の人に「川に行っても大丈夫」とか言うような感じでしょうか。あるいは、大きな地震のあとで余震があるかもしれない状況で、「地震雲がでていないから大丈夫」というのを広めるなどもあるかもしれませんね。

非常識ですし、議論が乱暴ですし、反社会的でもあります。これは"DQN"と呼ぶのでしょうか?私には、日頃見ているものと、単に少々水準が違うだけのような気がするのですが。

「何もしてないのにPC壊れた」(実際にはなにか非常識なことをやっているから壊れる)とか言って、できる人にPCの復元を無償でやらせる等々も、同じような例かなと思います(「システム管理者の眠れない夜」の事例もそういうのが多いですね)。

これ、"DQN"なるものとどう違うんですか?要求される知識の水準が違うだけではないんですか?

他人の知識が足りなくて自分に何らかの迷惑がかかり、余計な手間がかかるなんてこと、どこでもありえる話です。足りないというのがどのレベルかも、場所によって変わります。理系の大学1〜2年で学ぶ教養程度の数学ができない人に迷惑をかけられたと言うケースだって経験があります。それも"DQN"ですか?

人間誰しも能力の限界というのがあります。それを否定する気はありませんが、能力の低さを馬鹿にするようなことは、水準によって自分にも返ってくるものだと思います。いい大人がすることではないと、そう思います。

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