2014年8月13日水曜日

かけがえのなさ

自分のうつ病が一番重かった頃、最も救いになったのは、私がかけがえのないものだということを知らしめてくれた言葉でした。「お前がいないと俺が悲しいんだから」と言う、単純な言葉ですが、それが自分を最もかけがえのない存在たらしめ、自分を生かしてくれたのだと思います。

私の好きな歌「ローリング」の歌詞には"寂しさを人に言うな 軽く軽く傷ついてゆけ"とあります。しかし、寂しさに弱い私には、寂しさを人に言わない時の傷はあまりに大きく、うつだった頃に逆戻りしかねないと感じることさえ有ります。一人暮らしになってからの1年半、時折ではありますが、確実にそのことを感じていた自分は、誰かと話せる場所を求め、いつもそんなところへばかり行っていました。

私の本質は寂しがり屋です。多くを話すのも寂しいからだし、何かを書くのも寂しいから。寂しくないことが自分が生きていくための最上のことなのです。
そして、それ故に、誰からも話しかけられないという現実は、非常に強く自分の心を攻め立てます。返事が来ない、連絡が来ない、話しかけられない、誘われない等々、自分は嫌われているのだとしか思えず、それだけ寂しいならいっそ死んでもいいと思うことも少なくないのです。それは、もう20年以上前から、ずっと同じように思っていることでもあります。

寂しさ募って、色々なことを言っても、話しかけられることはなく、追い詰められたところで、いただけるのは助言中心で、「お前がいないと困るんだ」っていう、私自身を求める言葉は、もうありません。かけがえのないっていう言葉はあるけれど、それはどこか遠くの別の人のための言葉で、自分がかけがえのない存在だって自信を付けさせてくれる人はもういないのです。誰にとっても、かけがえのない存在ではない自分だったら、いつ死んでもいいなって、それは自分の人生感として、ずっと心の底にある考えです。

同じ中島みゆきの歌には"宇宙の掌の中 人は永久欠番"とあります。でも、私は永久欠番ではないから、人に劣る存在なのでしょう。
今、自分が欲しいものはと聞かれたら、自分がかけがえのない存在だと主張するに足る確証だと答えます。それを求めても、もう、くれる人は、近くにいないけれども。

周囲の態度は、"かけがえのない"とは正反対のことしか示していないかも知れません。それでも、自分が"かけがえのない存在"であることを知らしめてほしいというのは、傲慢な、世間知らずの、馬鹿げた話、で済まされることなのでしょうか。

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