2013年3月18日月曜日

「理性は感情を超えられないのか」


タイトルは「天才柳沢教授の生活」の言葉から引用しました。「理性は感情を超えられないのか」柳沢教授の子供時代を描いた話で、柳沢教授が(引き取られて養子になったためにできた)新たな弟に対する態度のうちに、自問した言葉です。
理性が感情を超えられるかどうか、私にその結論は出せません。
しかし、理性が感情を超えるのは難しいことであると、常日頃思います。



とても単純な例ですが、日頃尊敬していて、好んでいる人からの苦言を受けた場合、それを改善しようという気になります。たとえ、それが多少ピント外れであっても、好意的に解釈して改善しようと思えます。

しかし、あまり好きでない人、「正直関わりたくないな」と思っている人などからの苦言をすんなり受け入れるのは、かなり難しいものです。その人がどんなに正論を言っていても、どんなに気を使って発言していてもです。そんな、自分があまり好きでない人からの苦言も、感情を抜きにして簡単に取り入れられるような人は「理性は感情を超えられないのか」という問に関して、"NO"とあっさり答えられるのではないでしょうか。

「無理が通れば道理が引っ込む」と申します。私には、道理というのは理性的に積み重ねられるものであり、無理というのは理性ではどうにもならない感情的なものであるように思えます。感情の前では、どんなに冷静に理性的な議論をしたところで、大抵は「腑に落ちない」などの結果になってしまいます。「老いては子に従え」が難しいのも同じように感情が強いからではないでしょうか。

私は常日頃信頼の無い人間をやっていますから、そのことをよく感じます。

「あなたのいう事は正しいと思う、でも私にはそれを聴く気になれない」と面と向かって言われたこともあります。結局のところ、理性が感情を超えることは、可能か不可能かはおいといて、一般にかなり難しいことではないかと思うのです。

世を取り巻く自然現象を伝える時、あるいはそれについて論じる時、感情が入っている人がいます。そして、それについて多少専門的な(=学術的な、理論的とも言える)話をすると「難しい話で煙に巻いている」等とも言われます。理性が感情を超えられていない例です。

理性が感情を超えられない問題の根本解決が難しいことがわかっているから、世の中は感情に訴えかけるような表現を工夫する。数字という理論的なもので伝わりにくいから、想像しやすいような言葉で表現する。その結果が、結局理性的議論のされるべきものを感情的レベルに落とし、無用な論争を招いてしまっているように思います。

理性的な議論を出来るだけの素地がない場所では感情的な議論しか起こりえません。デーータに基づいた議論や、学問的下地に基づいた議論が好ましいとされる問題について、このような状況では正確な判断を行うのが困難になってしまいます。ですが、このようなことが大手を振って行われうるのが民主主義ではないかと思うのです。

イギリスやオーストラリアで、「暗号文の容疑がかけられたものを復号化する鍵を提供できない場合、懲役刑が課せられる」というような法律が成立し(かけ)ているという話があります。「本の虫」のブログなどを読む限り、この法律は感情が先立っているように思えてなりません。そして、先日来の遠隔操作事件での報道各社での(多少の知識があれば起こり得ないような)ひどい誤りを見ている限り、同じような法案が日本で提出された場合、通ってしまいうるのではないか、と。なぜなら、情報科学について理性的判断をするための材料を持っている人は少なく、大半の感情的判断の前に理性的判断が負けてしまうからです。

「理性は感情を超えられないのか」、柳沢教授の問いかけは、同時に民主主義や多数決に対する問いかけでもないかと思います。少数の理性的判断は、大半の感情的判断を超えられないのか。いや、超えられないからこそ、多くの問題がなお複雑化しうるのではないか、と。
自戒も込めて、理性が感情を超えられないのか、もう一度考えてみなければならないと、久々に読みなおしてそう思いました。個人レベルから、地球レベルに至るまでの、広い範囲で。

3 件のコメント:

tanutarou さんのコメント...

そんな法律があるとは...
頭では理解しているつもりでも,実際にそのように行動することができない.
自分もそういったことがよくあり,それは感情的な面によるものなのかもしれないと感じました.
感情を抑えることは難しそうですが,完全に感情に勝つまではいかなくても,抑えることがより建設的な生活につながると思うので,改善していこうと思います.

volcanologue さんのコメント...

お久しぶりです.
とりとめもないことを書きますが.
理性で感情を抑えつけるべき場面もあると思いますし,逆もまたあるべきと思います.必ずしもどちらか一方のみが,優れているわけでもないと思います.

仰るように,あまりにも感情的な議論はどうかなと思う時もあります.
しかし.どこかには「自分が嫌いだから」あるいは,「駄目だからダメ」という tautology のようなものですが,人に押しつけるための論理ではなく,自分を守るための論理としてこういう物があっても良いとは思います.

仮に,私が東京で核爆弾を起爆するように言われたとして,いろいろ反駁したけれど,どうしようもなくなったとして,最後に頼るべきは,「私はそれが嫌だから」とか,「宗教上の理由により(?)」とか,「家訓により」とか,そういう Ctrl + C みたいなものを持ち出すのではないかなと思います.

達哉ん/Tatuyan さんのコメント...

今更ながらのコメント返しですいません。

>tanutarou さん
私も法律についての詳細は知らないですが…。
少なくとも、理性が必要な場面において感情をあまり前に出しすぎるのはどうかと思います。

>volcanologue さん
賛成です。感情のほうが重要な場面もあること、疑いありません。そして、最後の手段として感情などを使ってもいいのかなという気がします。
問題と思うのは、理性的判断が要求されるような場面において感情がそれを支配していてはいけないのではないかという事です。そして、現実に、理性的判断の欲しいところで感情が先立ってしまうような馬鹿げた話があるのが残念です。