2012年8月29日水曜日

人を嫌いになるのが上手い人の話

中学の頃通っていた塾では、毎年卒業文集が出されていて、その中には、その塾の比較的偉い先生からの餞の言葉が書かれていました。全部は覚えていないのですが、随分心に残った話の一つに、「人を嫌いになるのが上手い人」の話がありました。

人は誰しも嫌いな人がいて、それ自体は仕方がないことです。
しかし、わざわざ嫌いになろうとしている人がいる。
最初に欠点が見つかったら、それを理由に嫌いになってしまう人がいる。
粗探しをして、欠点を見つけて、欠点が見つかればそれを理由に嫌いになってしまう人がいる。
それはその人にとっても、嫌われる側にとっても、不幸なことではないのか。
貴方は、嫌うのが上手い人になりたいですか?

それが、その話の大要です。

その話を読んだ時の前だったか後だったかは忘れましたが、その話を読む近い時に、学校のモラルの授業で「人の美点を見つけよう」というような活動をしました。クラスメートの美点を見つけて紙に書き出していく、というものでしたが、一人ひとりじっくり考えて美点を見つけ出すというのは、その人を好意的に見る練習であるとも思いました。

嫌いな人がいるのは仕方がない事ですし、どうしても馬が合わない人だっていてもおかしくない。たまたま見つかった欠点が、どうしても許せないものであることもあるだろう。だから、嫌うな、と言う事はできない。けれど、わざわざ欠点を探して嫌いになろうと努力するよりは、美点を探して好きになろうと努力する方が、よほど互いに幸せなのではないか。この2つの体験の言いたかったことは、まさにそれなのではないかと思うのです。

私も人間である以上、好きな人もいれば嫌いな人もいます。
当然、好かれることもあれば、嫌われることもあります。どちらかと言うと嫌われることのほうが多いかもしれませんが、それは最初の印象が強烈だから、仕方がないことかもしれません。

誰しも欠点があって、誰しも美点があります。人を嫌う理由の多くは欠点でしょうが、それをわざわざ強調しなくて良いと思うのです。吹聴する必要もなければ、それを理由にその人を嫌えという必要もない。美点と欠点の比重は、人によって違うのだから。

欠点を見つけた時、それをどう扱うかはその人の自由です。でも、私自身は、欠点がたまたま早く見つかったとしても、美点をきちんと探してから、その人がやはり好きか嫌いか判断したいのです。欠点を見て、ふっと付き合うのをやめてしまい、その人を嫌ってしまうのは不幸なことであるし、同時に憎しみを増やすだけでもあると思います。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎しと申します。そして、嫌悪は憎悪の種だと思います。だからこそ、人を嫌いになるのは下手なままでいいな、と思うのです。

比較的初対面で嫌われてしまうことが多い人の、負け惜しみに取られてしまうかもしれません。ですが、負け惜しみ以上に、自戒を込めて、嫌われることのしんどさを体験して、この意見を述べました。

0 件のコメント: