2012年1月15日日曜日

空へのあこがれ〜中島みゆきの歌詞の解釈(17)


中島みゆきは、自分の歌詞の解釈を聞き手に任せます。それは、私にとって嬉しいことであり、私もその精神に則って、自分なりの解釈をしていこうと思います。

解釈は人によっても異なりますが、時によって異なり、心によって異なり、状況によって異なるものであると思います。同じ曲を複数回出すこともあるかも知れませんが、それは状況や時が変えたということと考えてください。

2ヶ月ほどあいてしまってすいません。久しぶりの今回は、「この空を飛べたら」です。歌詞はこちら

セルフカバーアルバム「おかえりなさい」のトラック6及び「いまのきもち」のトラック5です。昨日書いたピアノアルバムにも入っていて、加藤登紀子に提供した曲でもあります。ライブ盤にも入っている、かなりあちこちで出てくる曲です。

こちらに非常に詳しい解説があるので、私が書くのもどうかと思うのですが、ピアノ版に感動したので、この曲を選びました。また、ちょうど今日に「全くの初心者による中島みゆき全曲解説」も「いまのきもち」版のこの曲の解説なので、ナイスタイミングと書くことにしました。

どのバージョンを聞いても胸を打たれますが、今回この記事を書くにあたって加藤登紀子版を含む4曲を連続で聞いてみて、どれも寂しい感じがすることに気が付きました。歌詞を考えてみれば当たり前、自分の失恋を空へと転嫁している寂しい風景ですから曲も寂しくて当然なのでしょう。

「全くの初心者による中島みゆき全曲解説」では、かなりドライな感想が短く書かれており、「中島みゆきの歌と共に生きてきた」でも、あまり長くない風景解説のような解釈が書かれているだけです。詩が比較的明確な比喩から成り立っていて、伝わりやすい故ではないかと思います。

この曲で空が恋しいのは、空を飛びたいのではなく、空を飛び去っていきたい、現実逃避したいという思い故なのではないかと思うのです。「鳥だったのかもしれないね」と同意を求めるような言い方は、鳥でありたいという願望からできてくるものではないでしょうか。前向きに飛びたいのではなく、今の自分から逃げてしまいたいという「空を飛びたい」なのではないか、と思うのです。いまも未練たらしく待っている姿からも、空を飛んで、自分から逃避できれば、という思いが読み取れます。

私も現実逃避したいことが数多くあります。正直に言えば、今も度々です。しかしながら、私は飛びたいではなく、もっと暗いことを考えます。明るい現実逃避というと変な感じですが、寂しい曲調の中にまだ希望の残る、そんな現実逃避を描いた曲ではないかと思います。

※ この解釈は、あくまで私の一解釈であり、正しい・誤りであるというのを書くものではありません。一つの見方として受け取っていただければ幸いです。



※ 扱って欲しい曲がありましたら、コメントでお書きください。



※ 他の解釈が載っているサイト、もしくは自分なりの解釈がありましたら、コメントでお書きください。

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