2011年3月12日土曜日

新生活はUbuntu Linuxで! ~第4回・Ubuntuのインストール(専用PC編)~

Ubuntuを専用PCにインストールする場合の手順はとても簡単であり、私がいちいち書く必要もなさそうなので、こちらを参照ください。

今回、Ubuntu専用機を作る上で必要そうな環境を紹介しておくこととします。

まず、メモリは256MB程度欲しいところです。CPUも1GHzぐらいは必要かと。
HDは30GBもあればデータ領域含めて足りると思いますが、ヘビーユーザーの場合はもっと必要かと思います。

わかりにくいという場合Windows XPが入っていたパソコンを専用機にできるというのが妥当かと思います。
------------------
次回は3/17、副題「Ubuntuのインストール(Dual Boot編)」といたしまして、UbuntuのDual Boot環境を作る方法を簡単に紹介します。

コンクリートの公園

散歩していて
ベンチを見つけて
休憩がてらと
歩み寄った

そこには
公園と書いてあった
コンクリートの地面で
遊具もなく
鬼ごっこできる広さもない

看板が立っていた
ボール遊びはしないようにと
小さな子供の遊び場だからと
その看板は
公園を公園たらしめようと
唯一抵抗しているものだった

周りの小さな芝生には
柵がぐるりと張り巡らされ
入らぬようにと書いてある

私は立ち去った
人のいないその公園から
遊び場と書かれた
舗装された公園から

私は舗装された道を
赴くままに歩いた
聞こえないわらべうたを
子供たちの元気な声を
心だけでききながら

2011年3月11日金曜日

人生で二度目の震度6以上の地震

タイトルのものが本日15時前後にありました。

達哉ん及びその周囲の人は無事です。
特に物的損害もありませんでした。

被害の大きい地域が心配です。

卒業への万年筆(3)〜シリーズ・新ステージへの万年筆〜

卒業では、遺産を相続する、と前々回書きました。別の言い方をすると、伝統を相続する、習慣を相続する、とも言えるのではないかと思います。自分が卒業する場所で学んできた、良き伝統の心を、良き習慣をずっと受け継いでいくというのが、卒業する際に学んできたことの表れではないかと思います。

伝統、形なきものをこそ。このタイトルがついた文を読んだのは、7年も前のことです。その大筋は今でも覚えています。伝統は技術の継承(だけ)ではなく、心がけを始めとした、心のレベルでの継承なのである、ということでした。形だけの伝統行事ではなく、心ある伝統をすることが出来ればよい、と書かれたその先生の言葉は、今でも自分の生活の中で、時折響いてきます。

そんな、伝統の継承を英訳すると、次の万年筆に行き着きます。
(こちらの写真はpen and message(https://www.p-n-m.net/contents/products/FP0224.html)より転載させていただきました。)


カスタムヘリテイジ91です。


カスタムシリーズはパイロットの主力シリーズであり、日本の文字を書くには非常に良い万年筆の一つです。私もこのシリーズの万年筆を愛用しています。日本のcustomである「日本の文字を書く」ということを継承するこの万年筆は、自らの中に流れる習慣を継承していく象徴的なものとして、同時に、書き味の良い実用的な万年筆として、その人を支えていくのではないかと思うのです。


----------------------------
次回は3月14日、創業への万年筆というタイトルでお送りします。


----------------------------
第1回:卒業への万年筆(1) シェーファー レガシーヘリテージ

第2回:卒業への万年筆(2) パーカー ソネット

心のガン

様々なストーリーに不治の病として出てくるガン。場合によっては、ホスピスなどの難しい選択も迫られるでしょうし、安楽死・尊厳死といった話にもなるでしょう。ガンにかかった部位が現代では救えない状態となるから、生きるに耐えない状態となるから、命尽きてしまう。

ガンに限らず、人は体の部位のどこかが生きるに耐えない状態となってしまえば、亡くなってしまいます。医療は、それら「生きるに耐えない状態」をできうる限りの方法で生きるに耐える状態に戻すものだと思います。

私は、心にもそんな状態があっておかしくないと思っています。鬱病を心の風邪や心の骨折と呼ぶ人もいて、それのさらにさらに発展したものに、心のガンとでも呼ぶべきものがあるのではないかと思います。

死は体の機能の問題であり、心の機能の問題ではないから、心がたとえ複雑骨折して生きられない状態となっていても、体は動かせるかもしれません。傍目には普通に生きているように見えるし、安楽死・尊厳死なんて言葉も出てくるはずがない。

心に重い病気を抱えた人が、自殺する。精神科云々の診断はわからないけれど、当人の心の病気は、当人の心を、もう生きられないと、安楽死したいと思わせるまでに蝕んでいたといえるのではないでしょうか。

自殺は悪いことかと問われたとき、私は一概にはそういえないと思います。心のガンがあまりにも進行していたら、これ以上の苦しみを体験しなくてもいいのではないかと考えます。歓迎すべきことではありませんし、周囲も、社会制度レベルでも、心の病を治療できるのが一番です。けれども、それらが及ばなかった結果としての自殺なら、私は、安楽死と同じ意味を持つのではないかと思っています。いや、もしかすると、安楽死ではなく、体のガンが命を奪うように、心のガンが命を奪ったと言ってもいいのかもしれません。

自殺は悪いことだという意見もあります。心のガンにかかったときでも自殺は悪いと言えるのでしょうか。心のガンの悪化による死が自殺なのではないか、それなら、体のガンによる死と同様、悪いとばかりは言っていられないのではないか。

心のガンが末期に至ると、そこからの治療は大変だと思います。早期発見と、そこからの治癒が大切だと思います。そんなメンタルヘルスを、軽視する人もいるけれども、私は・・・軽視すべきではないと思います。

2011年3月10日木曜日

理系大学生になる人へ ~数学ガールを読んでみよう~

シリーズ4巻の数学ガールは、その第1巻が2008年だったか、数学セミナーで話題になった名著です。

以下、達哉ん(T)と友人(A)の会話から…
A:達哉ん、その本面白い?
T:そうやね、バーゼル問題とかマクローリン展開とかが入門的に書かれとるよ。母関数とかも分かりやすいし。
A:母関数?聞いたことないなぁ。
T:あれ、数理統計学の授業で「積率母関数」って出んかった?
A:同じ物?
T:せやで、積率を数列と考えたら、数列の母関数・・・生成関数とも言うねんけど、積率母関数は同じものと言えるで。
A:でも、積率以外の母関数なんか何に使うん?
T:例えばベッセル関数の母関数なんて便利やん?


と、なかなか面倒な母関数まで書かれた1巻、整数論中心の2巻、論理学の学習にもなる3巻、基本的なアルゴリズムについて入門された4巻、いずれもサラリと読める好著です。

「遺されしパスワード」はどうなるのか

自分が急死したらどうなるか、という想像を少なからずしてしまいます。未来の想像より、よほどやりやすい想像です。死にたいと思っているわけでなくても、ついつい、自分が今死んだらどうなるか、を考えます。次の一瞬に生きていることは100%ではなく、確率の極めて高い偶然に過ぎないからです。私たちは生物ですから、次の瞬間どうなっているかはわからないのです。

その想像の際によく引っかかるのは、電子機器のパスワードです。私のパソコンは当然パスワード保護されていて、メールもパスワード保護されています。また、携帯電話もそうです。しかし、本人以外はそれらのパスワード保護を破らなければ解約できない様なものがあったとき、果たして遺族はどうするのだろうか、と思います。

例えば毎月課金されるサービス。パソコンメールで登録している場合は、そのメールアカウントにアクセスする必要があります。しかし、そのメールアカウントを削除したり、アクセスしたりするのにはパスワードが必要です。どうしたものでしょう。
このブログ。私は生存証明として書いていますから、更新がずっとなければ死んでいると分かります(と言っても、ここを見てくれている同年代の友人は少ないようですが)。ですが、このブログはずっと残るのでしょうか。消えることはないのでしょうか。管理する人がいないまま放置されるのでしょうか。

死んだ場合は、葬式などがあるでしょう。その連絡はどうしましょうか。私の場合、紙の住所録と携帯の電話帳の二つを合算すればほとんどの交友関係は見つけられますが、パスワードがわからなければ後者は見られない。後者だけというのは同年代の友人が多いですから、同年代の友人の多くは葬式があることすらわからない。私が死んだことは、葬式などが一通り終わったあとで、例えばこのブログを見ている人ならブログでわかるでしょうが、そうでない人は、もはや見も知らぬひとりが死んだ能と同じく、死んだことすらわからずに、私という存在の記憶を消していくのでしょう。

様々な電子機器が用いられる現代、急死した時の各種パスワードは、どうするのでしょうか。もはや操作されることない各種機器、ハッキングしようにも単純ではないのでは。

そんな時にどうするのか、自分の想像から、いつも気になっているところです。

2011年3月9日水曜日

新生活はUbuntu Linuxで! ~第3回・OSを変える/追加するとは~

OSというのは基本ソフトウェアと呼ばれるソフトウェアで、単純にいえばパソコンのシステム部分を司るソフト群です。


一般に最も使われるOSとしてWindowsがあり、Mac,Linux,BSD,Tron,Soralisなどもありますが、これらを使うためには、大きく分けて次の3種類の方法があります。


1.余っているパソコンなどを専用機として使う
2.マルチブートにより一つのパソコンの起動時にOSを選ぶようにする
3.現在使用しているOSに仮想マシンとして追加する


OSを変えるというのは1に、追加するというのは2,3に当てはまります。


1はパソコンが必要ですが、専用機になるので使い分けは便利だと思います。ただし、資源は結構なものが必要です。切替器などがあったほうが便利かもしれません。


2は一つのパソコンを使い回せますが、切り替えのためには一々再起動する必要があります。一度に使わなくていいならば楽ですが、一度に使う場合はおすすめできません。


3は一度に使える上にパソコンも一台で足りますが、大きくメモリを食います。どんなに悪くとも2GBはないと苦しいのではないでしょうか。CPUもそれなりに早くないとストレスばかりがたまります。


下のほうがお試し向けですので、Ubuntuがどんな感じかを2,3の方法で試してみるのもいいかもしれません。
------------------
次回は3/12、副題「Ubuntuのインストール(専用PC編)」といたしまして、Ubuntu専用機を作る方法を紹介します。

遠くの親戚より近くの他人、私には嘘だ

遠くの親戚より近くの他人、ということわざがありますが、私には正直、しっくりこないものです。

私にとっての他人というのは年齢的にも、あるいは物理的な距離的にも、遠い方の人が、よほど頼りになります。近い人ほど、自分のことをうとみ、鬱陶しいと感じ、あるいは老けていると感じ、避けられているように思います。うるさ型の人間、親にまで「おっさん」と言われるような人間、産まれた1989年よりも前の曲が好きな人間で、同年代の人から共感をえられることは少ないのです。このブログを始め、色々と書いている文章も「年齢層が高めで、同年代の人に向けているとは思えない」と言われます。

その事が結局乖離を生み出していて、私には、周囲の、同年代の他人より、年齢も住んでいる場所も全く違う、遠い他人の方がずっと救いになります。うるさ型だから近くにいるほど避けたくなるのでしょう、遠くにいる友人の方が、同年代であっても、ずっと頼りやすい。私がベッドの中で何らかの急死を遂げたとしても、近くの友人に気づいてもらえるとは思えません。

遠くの親戚は、遠くの他人に比べてactionを起こしやすいですから、その点で、遠くの他人よりは遠くの親戚の方が頼れると思います。そうすると、近くの他人より遠くの他人、遠くの他人より遠くの親戚となり、縮めて「近くの他人より遠くの親戚」となります。

私の考えはがんこで硬くて、古いのかもしれません。そして、それがあるから、年齢的・距離的に遠いほうがよほど頼りになる。私の中で「遠くの親戚より近くの他人」は、賛同しかねるものとなっています。

もし私が、「近頃の若者は…」と言われるような、"典型的若者"だったなら、近くの他人の方がよかったのかもしれないと思います。

2011年3月8日火曜日

ないことの平和

それは違うと言われるでしょうが、「戦争のない世界に!」という意見の一つの答えは「戦争の原因となっている人間がいなくなればよい」ということです。ある問題をなくすためには、その問題を含むより広範な原因を排除してしまえば、もろともなくなってしまいます。

借金の問題をなくすためには、そもそも金がなければいい。
捕鯨の問題をなくすためには、そもそも鯨がいなければいい。
飲酒の問題をなくすためには、そもそも酒がなければいい。

いずれも極論であり、賛同されることはさぞ少ないのでしょうが、それら現状で直面している問題がなくなるということだけは間違いありません。別の問題が出るかもしれないことはさておき、ひとまず「やらなければ」平和です。それによってえられる平和が、本当に価値ある平和かどうかはわかりませんが。

いくつかのチームで、企画を立てることがあります。これはチームの他の人のためというよりも、楽しむためという方が大きいのですが、それを見ていて、最近、私ばかりがそれをやっているということに気づきました。そして、その協力もあまりなく、問題やいさかいも起こっている現状に。

それら企画の原動力になっているのは私です。なら、私がやらなければ、私がそういうチームの人と仲良くしようと思わなければ、そういうチームの人など無視できるというぐらいに孤独に生きられれば、もっと言えば、私という存在そのものがなければ、そのチームの人は平和だったのではないだろうかと思います。企画も何もない、親交もない平和を手に出来ていたのではないかと。いや、そもそもそのチームを作ろうといったのも私ですから、私がいなかったとしたら、あるいは私がそういうチームを作ろうという気さえ起こさなければ、そもそも無関心だから、何も起こらなかったのではないでしょうか。

それは、友人関係にも言えることです。自分から誘わなければ、殆ど誘いのこない自分だから、それだったらいっそ自分が誘わなければ、その友人は私など忘れて、ずっと平和に居られるのではないかと思うのです。私が孤独でいられれば、いや、私が非存在であれば、多くの人はもっと平和だったのではないかと。

こんなことかいたって、私のブログに来てくれている人の多くは万年筆の世界の人たちだから、それ以外の友人で気づく人は少数だろう、と思います。それなら私は何か行動をすべきなのかもしれませんが、それも結局向こうには迷惑なのではないかと。

友人に言わせれば「誰もお前の文章なんて読まない」ということなのかもしれません。それだったら、私、文章書いたって意味がない。昔、メールマガジンをやっていましたが、読んでくれている人なんてほとんどいなかった。ただ鬱陶しいと言われただけだった。それなら、私が友人になにか話しかけようという気さえなければ、孤独でさえあれば、非存在でさえあれば、平和になるのではないかと思うのです。

私が話しかけることによる迷惑は、私が話そうという気を起こさなければいい。
そもそも私がいなければいい。それは最大の平和だから。

そこに待つ平和が、友人にとって「ないことの平和」なのか、本当の意味の平穏なのか、私にはわかりません。でも、後者の平穏の人ばかりというならば、私が存在して、私が友人に話しかけていることに、何の意味がありましょうか。

卒業への万年筆(2)〜シリーズ・新ステージへの万年筆〜

卒業に際して、最もよく贈られる花束は、言葉の花束ではないでしょうか。私もまた、非常に多くの言葉の花束を頂いて、卒業を経験してきました。


そんな、言葉の花束という意味での、ソネットを。今回は、「ソネット」です。
(こちらの写真はpen and message(https://www.p-n-m.net/contents/products/FP0016.html)より転載させていただきました。ソネットは写真左側です。)


ソネットは私が万年筆の世界に入った5年前にもあった、パーカーの定番モデルです。この定番モデルは、私の友人の幾人かも持っていますが、比較的柔らかい書き味で、まさしく「歌うように書く」ことができるペンであると思います。詩に込められる言葉は深く、それは言葉の花束を象徴していると思います。


ソネット、14行詩。それに込められる思いを、言葉の花束と共に受け取って、卒業への万年筆に。そういう意見から、私はパーカー、ソネットを推薦いたします。
----------------------------
次回は3月11日、卒業への万年筆(3)というタイトルでお送りします。



----------------------------
第1回:卒業への万年筆(1) シェーファー レガシーヘリテージ

2011年3月7日月曜日

新生活はUbuntu Linuxで!〜第2回・UbuntuでできないWindows〜

前回はコチラ

今回はWindowsの必要性について、Windows推薦の立場から書いていきたいと思います。

世の中のデファクトスタンダードがWindowsなのは誰がなんと言おうと間違いありません。この状態ですから、「多数に属していたほうが聞きやすい、自分で情報を集める手間がない」というのであればWindowsの方が楽でしょう。入門書の数も多くありますから、情報を集めるのは非常に手軽ですし、世のソフト・ハードの多くはWindows標準対応です。初心者にすごく優しい仕様で、さすが万単位のお金をとるだけある、と思います。

この他、ゲームができる点も捨て難いですし、ゲーム以外にも動くソフトが多数あるのはWindowsの利点です。Windowsでしか動かせず、Wine等を利用して使うのは怖いというようなソフトがある場合は、Windowsにすれば良いと思います。

また、互換性などで、他の人がWindows専用のファイルを出してくる可能性があります。C#のプログラムやマクロの含まれるOfficeファイルを使う場合は、世の人の多くに従い、Windowsを使わないと困ったことになります。

私がWindowsを推挙するのは、大きく言って、次の3点に尽きます。
1.初心者にやさしい設計で、パソコンに関してお金はいくらかかってもいいから苦労はしたくないという場合
2.ゲーム等、Windowsでしか動かないソフトを使う場合
3.世の人の多くがWindowsを使っているから、そうでないと困るという場合

私個人の場合、Windows7を入れていますが、1,3の理由には全く当てはまりません。C#どころかC++やJAVAのプログラムだって持ってくる人はいませんし(JAVAは少しぐらいいるか)、マクロ付きOfficeファイルなど、自分が仕事でつかって他の人に送ることこそあれど、他の人からいただくことはまずありません。ゲームを少々するためだけにWin7を入れていて、正直もったいないところです。

しかし、C#で普段プログラムを組んでいる人もいるでしょうから、そういう人にはWindowsが必要です。

正直なことを言うと、Windowsは肥大し、プログラミングやシステムいじりをしない人には親しみやすい一方で、システムいじりをする人には面倒なシステムになっていると思います。Windowsの目指す方向を考えればそうなっていて然るべきですが、1万円以上のお金をかけてそこまで欲しいか、というのが正直なところです。
------------------
次回は3/9、副題「OSを変える/追加するとは」といたしまして、OSの基本的な部分について説明します。

夜の携帯メール

夜中に携帯をつけているか消しているか、あるいはマナーモードか。私は消すのが基本で、消していない日は無音・バイブなしのマナーモードなのですが。

先日、ある書籍を読んでいたときに「携帯電話の人も多いから夜にメールを送るのは気をつけよ」という文が目に止まりました。たしかに書いているようにしているのですが、ここで、ふと疑問に思ったことがあります。

「あれ、メールってそもそもいつ読まれてもいいようなものだから、別に夜に消していても失礼に当たらないし、逆に夜に消していなかったと言って相手に文句を言う道理もないのでは?」

まだEメールが普及を始めた頃は、現在よりもメールの形式がしっかりしていました。その為か、4年前からスマートフォンをつかっている私は、メールが長いと言ってよく責められます。事実、携帯にはパソコンのような形式ばったメールは長いのでしょう。

携帯電話になってから、宛先に知らない人を書いての同報送信(BCCを活用しない)や、絵文字をふんだんにつかったメールが出来てきたのだと思います。しかし、しかしです。

メールはすぐに受信してすぐに返信しなければならないものなのか。
メールはいつも受信をオンにしておくようなものなのか。
それなら、筆談の電話と全く同じではないか。

私はそう思うのです。

携帯電話は電話ができます。必ずできます。そうでなければ携帯電話とは言いませんから、当然の話です。であれば、相当に急ぐものであれば、そもそものEメール普及時代同様に電話にすべきだし、実際電話にしている人も少なからずいます。

私が古いのかもしれませんが、メールにそこまでの緊急性を伴ったものを期待することはないと思います。メールは「忙しかったらあとでも読める」という利点があるのに、緊急性はそれを失わせるからです。

夜にメールの着信をONにしておいて、それで起こされて文句を言うのであれば、マナーモードの設定を変えて、メールの着信音だけをなくすようにすればいいと思います(大抵の携帯にはそういう機能があるはずです)。夜にメールの着信音を鳴らして置かなければならないというのが、どうにも腑に落ちません。

2011年3月6日日曜日

理系大学生になる人へ 〜数学解析を読んでみよう〜

本日紹介するのはこちら


数学解析」 溝畑茂著 朝倉書店刊

でございます。

以下、達哉ん(T)と後輩(A)の会話から…

T:一年間お疲れ様。数学が苦手だと言っていたけれど、どうやった?
A:まだまだ得意とはいい切れませんけど、困らない程度には出来ていると思いますよ。
T:それなら良かった。A君は確か私と同じで「数学解析」を買ったんやんな?難しくなかった?
A:そうですね、ずいぶん難しくて、通読も出来てないですけど、ノートなんかと一緒に使うとわかり易いですね。授業の副読本としてよかったです。
T:私も微分積分学の復習としてでなく副読本として買ったら良かったかなぁ…。

と、少し難しめの、しかし理論的に書かれた解析学の書籍として、私はこの本を推薦いたします。