2011年2月26日土曜日

あんたのままのあんたでおいでよね

中島みゆきのオールナイトニッポンの音声を聞く機会があり、その中で、「怜子」の流れる回を聞いていて、DJとして出た言葉が心に残ったのです。

「コンサートには、あんたのままのあんたでおいでよね」

その中では、自分に自信のない女の子、今はもう40歳ぐらいでしょうか。今でも、この一言は響いているのではないかと思うのです。

自分に自信がないとき、自分が疎まれてひとりでいるときに、その疎ましがられる理由があまりにも愚かであるとき、醜いのは自分ではなくそれを疎む周囲です。生まれたってのものを蔑む、その醜さほど醜いものもそうはないと、私は思います。顔立ちが良くなければ、とっつきにくいかもしれない。顔立ちがいい人は素敵に見えるかもしれない。それについて何を言いましょう。でも、顔立ちが良くないことを蔑むのは、人間として、顔立ちよりももっと欠けたる部分があるのではないでしょうか。

そんな意味を持っていることを、サラリと表現したあとに、中島みゆきは言うのです。
「コンサートには、あんたのままのあんたでおいでよね」
あんたのままのあんたで、自分のままの自分で来るということが、どんなに大切なことか。人に好かれるために自分を隠して着飾ったりなんてしなくていいから、自分という人間が自分のままでいるということが大切なんだと思います。

着飾らないというと、化粧をしない、とかと結びつける人もいますが、私はそう言うことを言っているのではありません。心のレベルで着飾らなくていい、ありのままの自分を受け入れて、それを拒絶しないことが大切なのだ、ということです。

私は別に人好きのする容貌ではありません。その割りに高い声で、からかわれるだけにとどまらず、前に出て話したら嘲笑されるというようなことも幾度もありました。それでもいいんじゃないかな、と私は思っています。容貌はたしかに人間を判断するための要素かもしれませんが、それはひとつの要素にしかすぎないのです。「人間は顔じゃない」というより「人間は顔だけではない」という方が正確でしょうが、人間を判断する要素は顔・容貌だけではありません。顔立ちはいいほうが嬉しいかもしれないけど、少なくとも私は、顔立ちだけで友人を選ぶような人間にはなりたくないです。

2011年2月25日金曜日

受験にはファーバーカステルだった

ちょうど3年前、大学受験。受験に類するものは鉛筆で受けるのが多いので、私も例にもれず鉛筆を用意しました。用意した鉛筆は、高校生の懐にあっているということと、私の想いを込めた


でした。

文房具的な意見もあるのですが、最も単純には「原点だから」がその本音でした。私の学習の原点となった文房具は覚えていませんが(ハマるきっかけになった文房具なら覚えています)、鉛筆の原点はカステルだ、と。そして同時に、私はそこに学ぶ者としての原点を忘れないために持っていったのです。

3年というときは人間を変えます。三角関数すら知らなかった中学生が、微分積分を使えるようになるのですから。そのなかで、鉛筆は学習の原点であり、その鉛筆の原点たるカステルは、ある意味で私にとっても原点である、と。

昔から外で遊ぶのは好きでなかった。サッカーやバスケで活躍する人々を羨ましく思いながら、でも底へたどり着くための努力は到底やる気になれない自分にとって、書籍や数字は、そしてそれを書くための鉛筆は、私の原点を築いたものにほかならないのです。

人間の原点は分野によって色々あるけれど、私の学習の原点は鉛筆だと、その思いを強く、原点を忘れぬために、私は受験の日にカステルの9000番を持っていったのでした。

世に色々な鉛筆があるけれども、ファーバーカステルは創始たる鉛筆として、これからも長く販売される鉛筆であって欲しいとおもいますし、受験で使う人もいればとおもいます。珍しく、質も何も無視して、私はただ思いだけで、ファーバーカステルを選んだのでした(とはいえ、質は何に文句を言おうというものですが。)

2011年2月24日木曜日

中古を買うということ

私がエコということを意識する場合、エコの後ろにつくのは「ロジー」ではなく「ノミー」です。というのは、今現在行為Aがエコロジーに見えたとしても、それが数十年の後にもエコロジーのままでいられるかどうかは不明だからです。

こんな私ですが、森林の無駄な伐採などには反対します。砂漠化などの意見もあるのでしょうが、難しいことを言うより何より「もったいない」ですし「森林は生命の集まりである」というのも理由です。色々難しいことを言うよりも「もったいないことをやめよう!」というだけで、エコ(ノミー・ロジーとも)につながっていくと思っています。

とりわけよく思うのは、中古販売です。
中古品でそれなりに綺麗なものはうりに出されます。それを買って使うことは、エコ(ノミー・ロジー)なのではないかと思うのです。

例えば書籍。受験参考書などは多くが売れていますが、書き込み等があまりないようなら譲れば良いと思います。専門書の場合、良書と言われて長く売れているものは、新書で買うよりも古本で購入したほうがハードカバーで耐久性が高く、安かったりする場合があると思います(例えば、溝畑茂「数学解析」などそうでした。)

CDも私はよく中古で買います。デジタルリマスタリングが施されていて音が変わっているなどの理由なら別ですが、今新しく買っても、中古でかっても音が同じ、というようなCDならば中古で買ったほうが安いし聞けるしいいのです。新しいもので買ってもそのうち汚れてきますから、それなら中古の美品を買えばいいと。

何でもかんでも中古で買えばいいとは思いませんが、中古で済ませられるものは中古で購入することでエコ(ノミー・ロジー)だと思うのです。

中古販売で問題になったと聞いたことがあるのは著作権の問題ですが、これはもうどうしようもないのではないでしょうか。動画サイトなどで無料公開されている現在、著作権はかなり侵害されている、という意見の人がいたとしても無理からぬことだと思いますし、それについて異を唱える気もありません。ただ、中古販売がこれを侵害しているかどうかという点については、私は判断しかねます。別にコピー等しているわけでもなく、正規のルートで販売されたものが入らなくなったから有料でゆずる、というのと変わらない様に思うのです。どうなのでしょうか。レンタルがいいのなら、中古販売もいいのではないでしょうか。

例えば、book offグループはよくやっていると思います。その他にも、私は中古販売をしている店が好きです。それは、中古を買うということが、色々な意味で優しく「もったいない!」と思わないですむからです。ソフマップにおいてある中古のパソコンは、ネットブック+オフィス用として使うなら十分美しく、性能も何も欠けたるところないようなものがいくらでもあるのですから。

企業レベルでの中古利用ってやってるところあるんですかね…?

2011年2月23日水曜日

二つの曲の"until today, starting tomorrow"

今回は珍しく、中島みゆきベスト200ではありません。

中島みゆきの最新アルバムの一曲目は「今日以来」です。この曲のタイトルを聞いたときに、何かふと思ったのが吉田拓郎の「今日までそして明日から」でした(親が好きで、よく聞いていたのです)。ほとんど同じような意味のタイトルの2曲に、昨日が好きな、未来より過去が好きな私は、感じることが多くあります。どちらの曲もどことなく曲調が似ているように思います。実際、「今日以来」は「今日までそして明日から」のオマージュではないかという意見も見られます。

2曲の共通点はそれぞれ聞いてみて、というところですので私が色々書くつもりはありません。

この2曲に思ったことは、昨日までの自分と今日からの自分の「同じところ」「違うところ」です。拓郎さんは「明日からもこうして生きていくだろう」と歌いますが、みゆきさんは「もう愛します、今日以来」と歌います。今日までの自分との違いがある一方、変わらない自分がある。その2つの違いが明日というものだと思うのです。

今は思うこともなくなりましたが、死にたいと毎晩のように思っていた頃、どれほど「今日までそして明日から」を思い浮かべたか。それまでほとんど流していただけの歌でしたが、現実味を持って迫ってきたのです。父がそれほど好きなのは、多分ずっとわからないでしょう、父が私の中島みゆき好きを分かりきれないのと同じく。でも、その一部をわかれたような気になったのです。

今日までのことを考えて、また明日を生きる。人間の、有限ながらも無限に見えるルーティンの中で、私は昨日を素敵に思いながらも、今日を、明日を生きていきます。愛したがりになろうと思いつつもなれないままで、こうして生きていくのだろうと思います。いつも昨日を素敵とおもうけれども、過去は未来よりずっと輝いて見えるのだけれども、でも、そう思いながらも、私はこうして生きていくのだろうな、と。今日まで生きてこられたのだから、可能性の高い偶然である明日も生きるのだろうと、漠然とおもっているのです。

2011年2月22日火曜日

我以外皆我師也…わかってもできないこと

自分以外からは何か学ぶところがある。それが「我以外皆我師也」の意味するところであり、それはわかるのですが、実際それを心がけて生きようと思っても私にはいささか無理だなと思うのです。

自分に合わないな、と思う人は誰しもいます。私はアクの極めて強い人間なので、合う合わないがきっぱり分かれています。それは立場的に師という人から、友人や後輩に至るまでそうです。
ある人と合わないときに、それをその一面で判断して切り捨てるのは早計と言う時もありますが、それがあまりに目に余るような一面の場合、私はその人と付き合いたくないな、と思います。反面教師という意味では「師」なのかもしれませんが、正直「師」としたくはないなという。例えば、以下に示すようなことが常になっている人ですが・・・。

・立場が上の人相手にはたとえ当人が何らかの(致し方ない)事情があったとしてもそれを無視して強制させるような人。最も手近な例は酒ですが、それだけにはとどまらず、愚かなことを強制させる人もいます。自分が酔っ払うだけでもいただけませんが、それ以上に、他人に許容量など関係なく飲ませようとする人は正直お付き合いしたくありません。友人が万引きをしていて、それに来なければ…みたいなタイプも嫌ですね。

・ほとんど無関係なのに(内情を知らず)根拠なく一方的に悪いという人。具体的な例は酒ばかりですが、ずいぶん以前に、高校を卒業した先で未成年飲酒が悪いと言った私のことを、叱りつけた高校教師とか。当事者として中を知っているわけでもなければ、第三者として言えるような意見も聞いてないのにどうして決めつけられなければならないのか、と思います。いい先生に出会ってきましたが、その先生に近況報告をする気はありません。

・ろくすっぽ挨拶も返さず、まるで人のことをロボットと思っているかのように応対する人。事務的な用事とか、あるいは通信関連での返信はともかく、道すがら挨拶しても返事がなくて、みたいな人。コミュニケーションの第一歩である挨拶がいただけないと、会話を弾ませる気になりませんし、いざ弾ませても応対が冷たく感じられます。そう冷たいと思いながらずっと話しても…。

・すぐに罵詈雑言を使う人。例えば「死ね」などとすぐに言う人。正当な批判、根拠ある批判ならばひとつの罵詈雑言「馬鹿」とか「死ね」だとかで尽くせるわけがありません。ボキャブラリーに著しく欠けたるところがあるのかもしれませんが、それでもすぐに罵詈雑言に頼るような方は一緒にいて楽しくないので遠慮願いたいものです。

・これは当たり前の話かもしれませんが、向こうから自分のことを嫌ってくる人。大して話もしていませんが、自分のことを嫌ってくる人というのは(私の場合)少なからずいます。私のことが生理的に合わないとかそういうことがあるんでしょうが、何もわざわざあからさまに嫌われていると思う人と親しくしようと努力する必要はないわけで。あからさまに嫌悪感を出すならば、別にこちらから親しくしようとする道理もありません。

自分で書いてみるとなかなか多いですね。でも、今書いたような点のある人と進んで付き合おうという気はありません。

逆に、普段比較的好意を抱いているような方だと、たとえ自分と意見が食い違っていても、なるほどと参考にしたり、師と仰いだりします。とりわけ、年齢的なものもあってか、文房具の世界にはそういう人が多いです。例えば、このブログにも来てくださる方では、「くまめくり」のつきみそうさん、「万年筆で書く描くしかじか」のkammyさん、「大阪のオバチャンな日々」の大阪のオバチャンさん、「万年筆坊主の日常」のmasaさん、「みずうみのほとりから」のshenさんetc,etc......

我以外皆我師也の実行は、私には正直無理です。でも、万年筆の世界の方々も、友人や後輩・先輩たちも、本当に尊敬できる人がたくさんいる。この世の全て、自分以外誰しもが師だとは言えないけれども、私という人間のことを好意的に見てくださる方々から学ぶことを学ぶのが、私にとっての「我以外皆我師也」の最良の近似です。

2011年2月21日月曜日

時は流れていくけれど、この眼前の寂しさのために流れているのではない

タイトルは何かの漫画の言葉から。何の漫画かは忘れてしまいましたが。

友人と話していたときにふと思い出した言葉です。時が経つにつれて仲が良いと思っていた友人ともいつしか離れていく…。高校の頃には比較的多くの人と話していたつもりですが、その中で今も連絡がとりあえているのは半分ぐらいではないかと思います。

何人もの人から、友人が多いと言われます。実際、ただ話すだけの友人ではなく、自分のことを心配してくれる友人がいます。もしも私がこの後すぐに死んでしまったなら、多分葬式には参列してくれるのではないだろうかと思う友人がいます。

そんな友人であっても、時が経つと疎遠になるものかもしれないと思うのです。18年来の幼馴染がいますが、彼とはもう全く違うステージです。時折話していて、先程話したような関係だとは思いますが、これがいつまで続くかはわかりません。とはいえ、なんだかんだあっても互いに色々話しているので、まだまだ長く続いてくれそうですが。

時がたって、我々は人のことも忘れてしまいます。10年後、20年後に、自分の中の「友人」はどれほど変わっていることでしょうか。新しい人がいるかもしれません。でも、その新しい友人は決して旧友の代わりにはなりえないし、また、代わりとして捉えるべきでもないのです。唯一無二、かけがえのない存在たる友人ですが、それでも疎遠になってしまうのが寂しいと思うのです。

何人かの年賀状には、こう書きました。
「時は流れて、互いにいるステージは変っていくかもしれないけれど、会う機会は減るかもしれないけれど、今年も会えたらいいですね」と。
数年前、友人たちに送る年賀状に、ひとつのキーワードを決めました。
「貴方が英雄たらんことを祈ると共に、永友たることを心より望んでおります」
永友、もちろん造語ですが、ずっと縁ある人間であろうという意味です。絆ある人間であろうという意味です。ヒーローであることはそれぞれの目標であるかもしれませんが、それだけにとどまらず、私にとっての永友であって欲しいという、大変わがままな文章です。

時は流れて、私はもうあわなくなった人に思いを馳せます。どこかの街角であったとしても、きっと声もかけないことでしょう。それが彼だと言われればきっと思い出すのでしょうが、そんなこともなく過ぎ去っていくのでしょう。人が永久欠番である限り、私は忘れたくないですが、人間の忘却はそれを無視します。それでも、その存在はきっとどこかに残っていて、それだから人間は時の流れにさびしさを感じざるをえないのだと、私はそう思います。

時は寂しさのために流れているのではないけれど、人間の性質上、時は寂しさをつれてきてしまいます。そして、それを持っていくことはまれ。大好きだった、今でも忘れたくない、10年前に他界した祖母ですら、もう声を忘れてしまったのですから。

寂しさが嫌だから、私は多くの友人を作り、多くの友人とずっと仲良くしようとします。でも結局、それは見果てぬ夢で、また寂しいからと同じ事を繰り返すのです。そんな中に、幾人か、永友がいて、私は彼らが居るから生きていけるのだと思っています。

寂しがり屋の裏返しが多くの友人で、それが結局新たな寂しさをつれてくる、そんなスパイラルの中に私は生きているのです。幾人かの「えいゆう」のおかげで。

2011年2月20日日曜日

「活字」を選ぶということ

読書に関して比較的しっかりしたことを。

私はドラマをあまり見ません。漫画についても、友人と話していてはっきりわかるぐらい少ない。自分の左右にある本は、専門書以外でも活字ばかり。それにはいくつかの理由があります。

ドラマは嫌いではないですが、進みません。漫画も読むのですが、それこそあっという間です。単行本1冊なら10~15分もあれば読んでしまっています。の割にはストーリーが進んでいないんです。私はストーリーに関してかなりせっかちなのが性分で、RPGの戦闘・移動ですらもどかしいほどです(システム的なものは別ですか。)

ハリーポッターが好きなので、全巻読んでいますが、母親はいつも「もったいない」と言っていました。すぐ読んでしまうからです。一日で読んでしまって、フゥーっと息をつくからです。

その中には中断しがたいイメージというものがあり、私の中では映画とも、時には本の描写にすらそぐわない部分のあるイメージを持って、私は活字を追います。

ずっと本が好きで、多くの本を読んでいます。多くの本を読む中で、私は多くの想像をして、楽しんでいます。本は与えられる情報が少ないから好きだ。活字は骨格と、後は言葉と僅かな挿絵で伝えるから好きだ。私はそう思います。

だから私は本を手にとって、今日も読みます。好きな本って、どんな本なのかまだわからないままに。