2011年7月11日月曜日

心配性とおせっかい

私は人に「よくそこまで心配事を見つけてこられるね」と言われるほどの心配性です。

この心配性に、私の場合、おせっかいまでもが加わりますから、人から見ればうっとうしいということは頭では理解できます。しかし、頭では理解できるのですが、なかなか心配しないということはできません。できるだけ手を出さないように自分では頑張ってみせるのですが、結局心配で心配でたまらなくて、手を出さないと辛くなることさえもあります。そして結局それがおせっかいになる。

小さいことを気にせずに、といろいろな人が言います。気にせずにと言って気にしないというのはとても難しいことで、気になるのは自分が意識してのことではないと思います。いつも何かを考えていて、いつも何かを気にしているように思います。安息という言葉の前には必ず束の間と付くものだとさえ考えている始末です。

芥川龍之介の「羅生門」の主題が「人間の矛盾である」という人もいます。人間が内包している自己矛盾であると。けれども、それは自分の中にも存在しています。気にしたくない、気にすると辛いということが分かっていても、何故か気にしてしまう自分がいる。おせっかいを焼いてはいけないといくら思っても焼いてしまう自分がいる。それはスパイラルをなし、1人、また1人と私の周りを離れていく人を産み出していきます。

私が年をとったとき、私と話せる人は誰かいるでしょうか。孤独になりたくないという思いがありながらも、孤独になるような行動ばかりをとる自分に、また矛盾があります。そんな矛盾があるから、私はしんどい。

冷酷になることが出来れば、感情を捨てることが出きれば、私はもう少し楽なのかも知れませんが、そこに一体何が残るでしょう。結局のところ、私はその矛盾を抱えていかなければならないのだと、思い知らされます。

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