2011年2月11日金曜日

挨拶と返事

挨拶や返事は人とのコミュニケーションの基本手段であり、これらに人となりが出るといいます。これに異を唱える気はないのですが、それにしては私の友人…私が一方的に友人と思っているだけで向こうは私に友人面されるだけ迷惑かもしれませんが・・・は寂しすぎやしないかと思うのです。

返事がない。挨拶がない。いつものことと流してしまう自分が情けないのです。時間に遅れるのも茶飯事です。

挨拶・返事なしで時間に遅れるけど約束だけはいつの間にか承認を得ているという状態が多くあります。時間に遅れる連絡がある人はまだマシで、その連絡がない人も決して少なくありません。

昔、ネチケットを学んだとき、連絡のメールには最低限返事を書くのがマナーだと習いました。うっかり忘れていて注意を受けたこともありました。でも、それは常識ではないのでしょうか。非常に多くの人がメールを使うようになって「メールが迷子になることもある」ということが忘れられつつある昨今、「連絡のメールには受け取ったぐらいの返事を返す」のはもう古びた話なのでしょうか。返して欲しいなら開封通知をつけろ、と(でも、開封通知は付けられるソフトと付けられないソフトがありますし、送付した先で拒否することも可能です。)

手紙について色々な本を読んでいて、受け取ったら返事を書くのが、すぐに会うならばあったときにでも礼を言うのがマナーだと学びました。昨今ならメールでも良いので、ありがとうとかえすものだと。こちらが個人的に、別に用事もなく近況報告で送っている手紙ならどうでもいい(と思うことにした)のですが、重要な連絡を書いた手紙だと、返事がなくて困ります。

挨拶も同じ事。挨拶をするということが忘れられているように思うのです。

私自身、挨拶や返事を忘れないようにしなければならないと肝に銘じています。挨拶や返事がないということはどれほど人に嫌な思いをさせるかということを身を持って体験しているから「自分が嫌がることを人にするな」と言うとおり、挨拶や返事をしない、返さないというのをなくさねばと思います。

誘いがない事より、もっとずっと嫌な思いをする挨拶や返事。自分はそれで人を不快な気持ちにしていないかと少し心配です。

誘いがずっとないことは、ただ自分が相手を好意的に思っているだけで、相手からすれば取るに足らない人間であるということを表しているだけです(それでも十分不幸かもしれませんが)。でも、挨拶や返事がない、失礼に値することをしても何を思われていないというのは、そもそも自分という存在を人間として捉えられていないということです。

会話は必ずキャッチボールだから、コメントの一回目という会話の始まりには返事をします。私は、このパソコン的な世界でも、コメントをくれる人を血の通った人間だと思うからです。逆に、ここにコメントをくれる人を始め、私の意見を興味深く見てくれる人には、多分私のことが人間として見えているのではないかと思います。

挨拶や返事がないということが少なくない日々。私は人間という存在として捉えられない、あるいは非存在として捉えられるべき人間なのでしょうか。

そんな人ばかりいれば、中島みゆきの「異国」が身の隅々まで行き渡るのではないか。そう思います。

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