2010年9月25日土曜日

俗物を育ててはならない

タイトルは、今年私の母校を去られた恩師が同窓会誌に書かれていたもの。その文章の真意はまだまだ捉えられないのかもしれないけれども、結果主義で教育を評価するだけではいけないという先生の意見に賛成しています。

受験の結果は大事かもしれません。部活動の結果も大事かもしれません。でも、それだけが学校か、と思います。受験の結果が大事なら塾で十分です。部活動の結果が大事なら学校の部活でやらなくてもクラブチームとか巷間の同好会でやればいいのです、人数が集まるかどうか分からなかったり設備が不十分だったりする学校でやるぐらいなら。

学校は、受験の結果や部活動の結果だけではその存在意義を確立できないと思います。それらが重要でない、と言っているのではなく、それらが全てではない、と言っているのです。学校で大切なのはそんな結果だけではなく、いろいろな行事も含めた人々の間の交わりや社交性の成長、あるいは道徳心の向上ではないかと思います。

小学校や中学校。私はたまたま要領がよく、また、塾などの勉強の甲斐もあってか、テストの成績は優秀と言われていました。だからといって皆からの信頼が得られたわけではなく、むしろ信頼などないに等しい状況でした。その頃のことを知っている人は、今や自分の友人のごく一部にしか過ぎませんから、ここ5~6年に出会った人は皆その話を聞いて驚きます。そんな私が一番覚えているのは授業の内容ではないのです。授業の内容なんてほとんど忘れていて、むしろ道徳の授業…皆が馬鹿にし、軽視されることもありますが、その道徳の授業こそが一番残っているのです。その頃のことが今の自分の信念を形作っています。

結果主義は見やすいかもしれません。でも、それだけでいいのでしょうか?賢い大学で麻薬の問題が多いなどと聞かれることがあります。未成年飲酒をしていない大学生なんてほとんどいないと言う意見を聞いたこともあります。それは、道徳教育において、正義感や自尊心という部分を育てられなかった人間ではないかと思います。正義感や自尊心があるなら、「正しくないこと」はやらないと思うのです。勉強をしている人たちのことですから、法律的にまずいことを正しくないと思うことでしょう。それでもこんな問題が出るということは、正しいことを押し通すだけの「心の勉強」が足りていないのではないでしょうか。特に麻薬等、科学的に害のあることが分かっているのですから、自らを損なうと「できる人々」ならわかっているでしょうに。

別に私だって偉そうなことを言えたことではありませんが、しかし、結果だけを見て勉強していてはいけないし、教える側も結果だけを見てはいけないと思います。心の問題に完全な正解はないし、教師が必ず正解を与えられる問題なんてものもありません。でも、考えることは大切なのではないでしょうか。心の問題として、生き方の問題として、物事を考える時間を取ること。決して結果主義とは結びつかないでしょう。結果をあげることもないでしょうし、教養が身につくかどうかといえばそれもまた違う方向でしょう。それでも、考える時間を取ることが「俗物を育てない」教育に結びつくのではないでしょうか。

学校でマインドコントロールせよと主張しているのではありません。色々な題材を素に、自分を見つめ直してみる時間をとってみてはどうか、と言いたいのです。

大人でも難しい問題だとは思いますが、電車の駅の階段で、転がり落ちた女の子と、突き飛ばした女の薄笑いを見たら、貴方はどうしますか、そしてそれを実際に行動に移せますか?…その問の答えを突き詰めることが、自分を見つめ直し、ひいては「俗物を育てない」教育に結びつくのだと思います。

先生の「俗物」が何を意味するのかは私には計り知れないのですが、結果だけを見るのを俗物というならば、私も俗物を育ててはならないと思うのです。

2010年9月24日金曜日

fuente50号と記念冊子「fuenteに寄せて」

万年筆布教論が10回になったので、また少し休憩を挟みます。今日の話題はfuenteです。

今月中旬、私のもとにもfuenteのNo.50「今を 楽しんでいます」が届きました。毎度毎度寄稿させてもらっているほか、50号記念冊子もあるということで大変楽しみにしておりました。

普段さらさない手書きを晒すということで、周りに比べてひどく悪筆の私、情けなくなりましたが、「悪即個性筆也」ということで気を取り直し、じっくりと読みました。50号自体もいつものように、いやいつもより深く楽しみましたが、万年筆の面白さをまた味わった次第です。

その内容として、私が少し違和感を覚えたのは、スローライフと現在のデジタルメディアとの対比です。fuenteの形式が変わるべきかどうかなどということは無益なので言いませんが、現在のデジタルメディアの衰退を確定している人は多いし、また、それの根拠となることも多く言われています。しかし、デジタルメディアそれ自体は一つのデータ集約法として優れていて、また、その速度などの効率面でも優位です。良い・悪いではなく、性格が違うものである、ということです。

私はfuenteの形式の変更を唱えられたら即反対します。今の形式で良い、と。一通一通丁寧に送付していただける今の形で良い、と。ですが、fuenteやWAGNERとはまた別で、何らかの情報サイト、あるいはそれに伴う倶楽部を作ることが出来れば、共考えています。

fuenteを始めとしてあちこちで主張されている通り、現在万年筆情報を手に入れるには事欠かない状況です。ただ、その情報はあまりにも散逸している、というのが私の印象です。WAGNER入会までは結構な苦労を要しました。これらを集めたデータベースサイト等を万年筆のクラブにも協力してもらって開けないか、というのが私の主張です。万年筆の知識のある人ならば多くが編集できて、なおかつ情報のまとめに良いデータベース。色々な万年筆関連の人の交流に役立つブログを含むリンク集。後、簡易な掲示板や会議室なんかをつけてもいいかもしれませんが、そういったシステムをネット上に構築し、それを万年筆好きで運営できれば、と思うのです。これには、次のような狙いがあります。

1.万年筆愛好家が互いに情報を交換しあうこと。匿名で、あるいは情報の利用だけで「つるまない」人もいていいし、書き込んだりして広めようとする「つるむ」人もいていい。
2.万年筆初心者が万年筆に手をだそうとするとき信頼できる情報を提供すること。裾野を広げる実際活動は簡単にはできないことから、まずはハードルを下げることに重点を置きたい。
3.万年筆メーカーが各種の告知を行ったり、逆に万年筆メーカーが意見を汲み取るための場所として利用すること。定数の人間が参加しているコミュニティならばメーカーとしても無視しづらいのではないでしょうか。

これらシステムの構築、どうでしょうか。fuenteにも書いたのですが、興味のある方、よろしければ(このコメントでも結構です)、ご一報ください。

2010年9月23日木曜日

あの時の選択が違えば

ただひとつの選択が人生を大きく変えることはよくあることで、よくあることだからこそ些細に見える選択も十分に検討しなければならないのだと思います。

「あの時の選択が違えば」と思うことがあります。それを知ることが出来ればよいのに、と思うのです。そうして、それが間違いだったと思ったら、前車の轍を踏まぬよう、自分史に綴っていけばいいのです。そうしてできた自分史が増えていけば、人生の指針となる本は随分増えるように思えます。

私の今の人生は、中学の時の部活動の選択が大きなファクターとなっています。でも、もしあのとき、私が長続きしないだろうと思って諦めた運動部に入っていたらどうだったろうか。バスケ部なら、バレー部なら、サッカー部なら・・・色々考えてしまいます。高校のとき、運動部に入ろうかと思って、でもスポーツ校だと言われることのある学校だからと、運動部の選択肢をはじめから捨てました。私がその時選んでいたら?多分途中でリタイアしていたのでしょう。大学に入ったとき、初めて運動部と名のつくものに入部して、でもそれはすぐにリタイアして・・・。続けていれば、今はどうなっていたのでしょうか。少しは疎ましがられなかったでしょうか。

部活動の例を多く出しましたが、私の今の人生にそれがすごく強い影響を及ぼしているためです。中学の部活の時に母に言われた「途中で投げ出すな」、今にいたるまで、最低一つはやり通していますが(兼部しているうちのひとつだけは貫いている、ということですが)、そのやり通すものを変えていれば今の自分はどうなっていたかわかりません。

高校のとき、ほんの少し、演劇部に入っていたこともありました。生徒会執行部に入ろうと思い立って、「ノリ」のような感じでやめてしまいました。あまり好きではなかったのもありますが、面白さを知る前にやめてしまったのは否めません。続けていれば今どうなっていただろうかわかりませんが、それを知ることが出来ればなぁ、と思います。

あの時の選択が違えば…その「違う選択」の先を知ることはできません。でも、過去の選択を変えてみて、今どうなっているかを知ることが出来れば、それは後悔を強くするのかもしれないけど、人間の知恵として何かしら生きていく指針となるのではないかと、そう思います。

あの時の選択が違えば今にいたるまでどうなっていたかを知ることができる、そんな道具があればいいのにな、と思います。

2010年9月22日水曜日

万年筆布教論10 「万年筆団体と布教」

第10回は、fuenteやWagnerといった、万年筆関連団体の布教における利用方法を述べます。

--以下本文--
万年筆関連団体は複数あるが、それについて、一般的にいって初心者にはハードルが高いものである。その利用方法があるのかどうかという点については疑問の余地があるかもしれないが、ものは使いようである。ここでは、各種団体の利用方法について、布教という観点から述べていく。

大きく分けて、会合を開催してそこで実際に会うことを中心とする会と、それぞれが情報を交換しあうことを主体とした会が存在している。前者の代表例としてはWAGNER、後者はfuenteだろう。

前者についてであるが、自分ひとりではなく多くの人が意見をすることにより客観性を示すことができる。ある一本のペンをすすめるのでも、多数が良いと意見する方が(日本人の一般的な心理として)購入しやすい。そのような意見を得ること、また、ペントレ等により良いペンを安く購入すること、しかるべき処置を受けられること(ペンクリ等)がこういった「集まる会」の利点である。一方、これらの会に参加する初心者はほぼ確実に気後れするので、布教者はそのフォローを要求される。まず、自らの知り合いと話し、上手に話の場を提供すること。それから順次、環(和)を広げていく。そうして、会話を弾ませた上で、ペントレがあるならその購入まで含めて行う。

後者についてだが、こちらは初心者には勧めにくい。一本目購入後に万年筆の世界により深くはいろうとする場合には妥当であるが、万年筆を知らない一本目購入者には少しハードルが高いし、また、利用も難しいところであろう。興味を出させるのに用いる、という意見もあるかもしれないが、集団であるがために「好きな人がやっているものだ」と感じられてしまっては逆効果だからである。

一本目購入までに万年筆団体を利用するとすれば、それは実対面で購入やペンクリがあるものを中心としたほうが無難である。逆にハードルを上げてしまいかねない。一本目の後の役割は大きく担うが、その前に、まず一本目という場合には団体のできることは少ない。個人交渉を旨としたほうが良い。

団体は「好きな人が集まっている」という印象からどうしても抜け出せない。それを逆手にとって、知識やブツでいいものがある、という利用の方法でなければ、初心者には厳しい。そのことを理解した上で、使うのであれば、ペントレのある会で、ペントレ中心だろう。
--以上本文--
団体にとってはあまりプラスではない意見ですが、こればかりは仕方がない場所があると思います。私自身は団体に所属していますから、もっとプラスに働けばいいと思いますが、なかなかその壁は厚いようです。

2010年9月21日火曜日

横で紅茶を飲みながら

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
パソコンの時も
ペンの時も
何か読むときも
誰かと話すときも
心辛くて歌に逃げ込むときも

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
その日何を淹れるかは
目についたものの時もあるし
味の気分の時もあるし
リクエストの時もあるし
もしかしたら賞味期限

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
ふと見ればもう5杯
数時間しかたってないのに
何度もお湯を沸かして
毎回違う産地のもので
何度お湯を汲みに行ったろう


気づけば淹れて
気づけば飲んでる
飲みたいと強く思って飲む時と
気づいて飲んでるとその時は
選ぶお茶が違う
一級と言われるお茶や
自分が好きでも手に入りにくいお茶
初めてのお茶は
居住まいを正す

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
そんな紅茶は
私のお茶では格下でも
味は逸品だ
それは邪魔することなく
文書くときに後ろでながれるBGMのように
意識しない美味しさだ

2010年9月20日月曜日

万年筆布教論9 「布教調整論」

万年筆の布教にあたって重要な、「調整はどの程度行えばいいか」について記します。

--以下本文--
現在の万年筆愛好者にとって調整の利用はそれほど特殊なことではない。一本のペンを愛用し続けてペン先が紙によって僅かずつ擦れていき自然とスイートスポットが…というような現象を味わう人もいるだろうが、少なくとも、調整という発想を特別なことと捉える人はいないのではないだろうか。この調整だが、調整も万年筆布教論で重要な位置を占めるものである。調整販売の店の場合はなおさらである。ここでは、布教者としての調整の立会い方と、調整はどの程度行うべきかということについて記す。布教者=調整者の場合にも応用がきく。

まず、調整を行うべきかどうかという点についてだが、これは呼び水のペン、購入ペンを問わず行ってよいだろう。但し、生贄のような楽しみ方はせず「万人受けするペン先」にしておくのが望ましい。できれば「本来出荷時にはこうあるべき、あって欲しい形」にしておく。検品されていた頃の万年筆のように、どれをとっても書き味よく、誰が書いても書き味よく、という調整を心がけたい。これは、書きぐせがまださだまっていないことに由来する。

万年筆を使い始める人、あるいは使い始めて長くない人は書きぐせが安定しない。半月で80度から60度に変わった、というような事例もある。そこで、書きぐせが変化したとしても書きやすさを保証するようなペン先とし、書きぐせが定まってくるまではどのように書いても大丈夫なようにしておくのが良いのである。この過程で、万年筆使用者は自分にぴったり合う筆記角度を模索する。

この状態のまま使い続ければ安定してくるので、安定した後はその人に完全にあわせてしまってもよいだろう。だが、初期段階では「一箇所の満点より多数の高得点」を旨として調整したい。書きぐせが定まるまではそのようにしたいし、極論、はじめのペン先の状態さえよければあえて手を加えず、完全に筆記のみで調整してしまってもいい(勿論時間はかかるが)。僅かながら、しかし確実に、手になじんでいく感触は、マニアに限らず感じ取ることのできるものである。

このような調整をお願いした上で、布教者は何を言うべきかといえば「書いていてストレスに感じる部分はないか」ということである。通常の試し書きをしてもらい、それでストレスに感じるような部分がなく、手が疲れない事。それ以上の書き味の評価などは求めても無意味である(それだけの評価基準がないことは先述したとおりである)。とにかく、自分の筆記に置いて一切のストレスがないこと。「良い」のではなく「及第」であるのを目指す。ストレスがない、というのは非常に重要なファクターであり、これは「マイナスではない」ということのみを示すのであって、プラスであるかどうかは気にしていないのである。プラスについては無視し、徹底的にマイナスをなくしてしまう、そんな調整を促すように超えかけをせねばならない。その分かりやすい最たる例が「ストレスなくかけるか?」なのである。
--以上本文--
pen and message店主氏とも同様な話をしたものをまとめました。

2010年9月19日日曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その6

31位~40位です。もしかしたら「いかにも」な選び方になっているかもしれませんが・・・。

歌姫:31位。「寂しいなんて口にだしたら誰もみんな疎ましくて逃げ出してゆく、寂しくなんかないと笑えば寂しい荷物方の上でなお重くなる…」これほどまでに「寂しい」という荷物の処理の仕方を端的に表した文章は見たことがありません。なまじっか「寂しい」と言っても、まだ付き合って日の浅いような人であればただ逃げ出してゆくばかりだし、と言って強がってみてもしんどいばかり。古巣に戻って寂しいといえば疎ましがらず逃げ出さない人がいますが、それが私にとっての「歌姫」なのかもしれません。決して歌が上手いという意味ではなく、一緒に話すことで、その人の言葉を(私はお茶ですが)飲み干すことで、少し淋しさがなくなるような、そして自分の今いる場所が明確に見える気がするのです。それが「遠ざかる舟のデッキに立つ自分が見える」ということなのではないでしょうか。

幸福論:35位。「他人の悲しみをそっと喜んでいないか」、かなりぐさっと来た一節です。ふと気づけば、夜、眠れない夜に特に多いですが、ふと他人の悲しみをそっと喜んでいる自分がいます。もし、「幸福量保存則」が成立するならば、エゴを承知で言いますが、他人の悲しみの分だけ自分の幸福が増える可能性がある、と。これと対照的なのがのび太の結婚前夜の名言です。しずかのパパの発言に、「のび太は他人の幸福を喜び他人の不幸を悲しめる人間である」と言うものがあります。これは一件単純そうに見えて、ものすごく難しいことです。能力や運に恵まれない例としてよく出るのび太ですが、それでももっとも人間として素晴らしい部分を体現している。勉強などで優等生と言われることもありますが、私はそんな成績の良い人間よりも、のび太のように馬鹿にされても、人の喜びを喜べて、人の悲しみを悲しめる人間でありたかったのです。その「人」が今はまだ限定されているけれど、その限定が解除される日があれば…そう感じる曲です。

狼になりたい:36位。狼は現在においては「肉食系男子」にでも例えるべきなのかもしれませんが、私はそうというよりむしろ、孤高な、「一匹狼」な気がします。一匹狼で生きて行きたいと思うのに、なんだかんだでしんどくて、今日も酒を煽る自分。しんどいな、って思う中で、本当に孤高に耐えられる一匹狼になりたいという痛切な叫び。それが私の、この歌に対する感情です。酒に溺れてやりきれない現実をどうにかしようとする主人公や「向かいの席のオヤジ」。孤高に耐えられる一匹狼ならば、そんなことをしなくていいのかもしれないけれど…。狼になりたい、孤高に耐えられる…。「人形みたいでもいいよな、笑えるやつはいいよな」っていうのが、「いいことしてやがんのにな…」というのは、人形みたいに「いいこと」をただしているだけで笑っていられるやつはいいよなぁ、と、自分の信念を貫こうとしてどこまでも生きたいと思う自分の弱さよりもよっぽど幸せそうだなぁ、と、そう思っているのではないでしょうか。一匹狼になりたい。孤高に耐えられる一匹狼に。自分の信念を貫き通す人間ならば、それが一番幸せなのかもしれないと感じさせられた作品です。