2010年10月6日水曜日

ハリーポッターの名言4:「なら僕は人間でいるのは嫌だ」

ものすごく久しぶりのこのシリーズ。なんと1ヶ月以上空いています。予定稿の時期に出しておけばよかったと反省。

さて、今回の名言は(漸く)ハリーの言葉です。「なら――僕は――人間で――いるのは――嫌だ!」と、ダッシュで区切られながら書かれる、不死鳥の騎士団下巻625ページの一つの見せ場だと思える場面です。愛するがゆえに苦しむ、その苦しみがあまりにも強すぎて、もうそんな苦痛を感じる人間であることが嫌である、というハリーの言葉です。

私は幸いにして、ハリーよりも親族にはずっと恵まれています。父母だけでなく、祖父母も健全ですし、弟までいます。そんな状況でハリーの事がわかるというのはおこがましいと思うのですが、それでもこの言葉はものすごく心に残っています。

愛するということは別に家族だけに出来る行為ではありません。勿論、家族には大抵最大限の愛情を注ぐことでしょうし、その愛情が途切れることもまず無いでしょう。源氏物語などでは「見捨つ」を「死ぬ」という意味で使いますが、これは子供のことを親が見捨てるのは死ぬ時以外ないから、という説明があるほどです。ハリーの世界ではそれ以上であり、親の愛情は、炎のゴブレットや死の秘宝でも見られます。

それでも、その愛ある縁を失うことは、それが永遠のものと思われるときにはひどく辛いものです。ハリーの場合はそんな縁がもともと少ない。そうあれば、もう人間であるのは嫌だと、愛を失うその辛さを味わうことはもういやだというのもうなずけます。

永遠の生を描く作品の多くは、大抵、愛する者が皆先立ちゆくためにその生を後悔してしまいます。それを見ている限り、私にとって永遠の生は全くもってほしくないものです。その一方で、私が死ぬその時にも、幸いであればそれを悲しむ、辛く思う人がいることでしょう。世界中の全ての人に嫌われれば話は変わるのでしょうが、それだと生きているのが辛いものです。死ぬこと、その一番の怖さは、私にとって、私を愛してくれるありがたい人々に辛さを感じさせてしまうことです。

ハリーの言葉は、勿論シリウスの死にあたっての言葉ですが、同時に、死とそれに伴う愛の喪失を描いた含蓄ある言葉だと思います。「なら僕は人間でいるのは嫌だ」、私という人間が失われて、それを悲しむ人がいるのであれば、いっそ非存在がいいと、そういう意味では、私も人間であるのはいやです。

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