2010年6月7日月曜日

ばれへんかったら、ええんや

小学校の頃、道徳の授業の教科書に出てきた、このタイトルと同じ文を持つ文章が、妙に印象に残っています。色々と悪事を働き、このタイトル通り「ばれへんかったらええんや」と過ごしていた小学校時代でしたから、これが心に残っているのも、当然といえば当然なのかもしれません。


ばれへんかったら、ええんや。その一言が悪事に結びつくのはだれしもが容易に想像できるところでしょう。ばれなければ何をしてもいい、という、そんな極論だって「ばれへんかったらええんや」からは容易に導かれます。

この文章を小学校の時に扱ったとき、普段の科目の授業をほとんど聞いていなかった私ですが、「あなたは、この意見のことをどう思いますか」と問われて、答えに詰まりました。今、私自身の答えは、もちろんNOですが、しかし、ばれへんかったらええんや、ということが本当に意味することを考えることが多くなりました。

確かに、しかるべき立場の人に知られなければ自分自身が処罰を受けることはなく、悪事は成立してしまいます。一切の痕跡のない「完全犯罪」ならば、その行為を行った人間は処罰を被ることはありません。当人にとってはまさしく「ばれへんかったらええんや」です。

それに対して反論できる強力な手段はありません。論駁できるだけの当人への利益はありません。そもそも利己主義である意見が「ばれへんかったらええんや」ですから、その意見を否定するならば、「ばれへんかったらええんや」以上の当人への利益を論理的に示す必要があります。そう言った意見の人は大抵狡いので、ばれない確率の方が高く、全体としての期待値はプラスになります。

その意見を持った人を相手にするにはどうすればいいのか。処罰を重くして全体の期待値をできるだけマイナスにすることがよい、と「プログラマのための論理パズル」には書いてありました。ですが、それにも限界がありますし、「ばれへんかったらええんや」が大きな犯罪、それこそ復讐等に用いられた場合、処罰と天びんにかけてでもなお実行を誘発してしまいかねません。

ならばどうすればいいのか、といえば、これはもう、それぞれの良心に任せるしかないと思うのです。けれども、実際のところ、そんな良心を持ち合わせているような人は小数派のような気がします。

もっとも成績の良いといわれる集団や恵まれた環境にいる集団にいるほど、この「ばれへんかったらええんや」はまかり通っているように思います。私の中学時代の先輩と話をしていた時に聞いた話ですが、その先輩の通っていた「坊っちゃん校」ではまさしくそう言った状況で、ばれへんかったら…とばかりに軽犯罪を繰り返すようなものが多かったと聞きます。高校時代の後輩も、自分の行っている大学の状況がそんなものであったと言っており、自身もそうなりかかっているようにさえ見えました(無論、しかりつけたのはいうまでもありません。)。

学校教育を論じている賢い方々もマスコミも、成績をはじめとして学業面の教育を非常に気にしています。そのことについて、私は色々口をはさむ気はありませんが、けれども、本当の意味での道徳教育について、いじめなどが横行しているにもかかわらず、論じられないというのは不思議で仕方ありません。

学校という機関は学業だけの機関ではないはずです。学業だけの機関ならばいくらでもあるからです。公教育の機関として学校があり、その学校でとられている道徳の時間は週に1度だけ、それもつぶれることさえある…。これでは、「ばれへんかったらええんや」の文章だって活きることはありません。

確かに学業は大事だと思います。けれども、あちこちの「お偉方」を含め、成績のいい人たちが「ばれへんかったらええんや」とばかりの行動をとっているのを見るにつけ聞くにつけ、小学校をはじめとした公教育機関での道徳教育の重要性がより増しているように感じます。

本来、ばれへんかったらええんや、という考えの基となる良心は、友人と遊ぶときにルールを守るなどの、とても小さなことから築かれるものです。ゆとり教育云々を言っていた時代もあって、それに対する反省もあるかも知れず、学力についてよりしっかりと学ぶのも大切なことですが、しかしながら、"All work and no play makes Jack a dull boy!"、「遊ばずにただ勤勉に働いた(勉強した)だけであったがために、ジャックはおろかな少年となってしまった」、では、本末転倒極まりないものだと思います。

よく学び、よく遊べ。その一言は教育の上での至言だと思います。そして、それが実行されていない、ただ学んできただけの、成績の良い愚者を見て、自分が「よく学びよく遊んで」育ってきたことに感謝せずには居られませんし、そういった人たちに強い怒りと同時に憐れみを覚えます。

教育を論ずる方々が色々と言っているけれども、たとえどんなに成績の良い人間を育てても、たとえどんなに力の強い人間を育てても、それが誤った方向に使われるようでは、結局意味のないことになりはしないでしょうか。良心という財産を得られないそんな学校教育なら、私はNo,Thank youですし、自分が子供を通わせる立場になったならば、絶対に「良心」を育てる親でありたいと思います。

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