2010年12月31日金曜日

2010 私にとっての10大ニュース その5

9.西播磨天文台での悲願の同窓会
三度目の正直ということで、友人たちと毎年やっている同窓会を、ようやく西播磨天文台公園で行うことができました。一年目は人数が足りず、二年目は雨に阻まれ、本当に悲願という感じでしたが、ようやく出来て、そしてもちろん楽しくて、来年以降も(場所こそ違えど)に多様な同窓会が出きればと考えています。

10.新たな出会いと旧交の深まり
10大ニュースの一つは毎年これですが、これがなければ、私は私でなくなると思っています。
新たに出会った人々との新たな絆。以前から親しんでいる人たちとの、さらなる交友の深まり。それらを大切にしたいと常日頃思っていますし、今年もまた、新たな絆を得て、以前からの絆を温めることができたことに感謝しています。

それでは皆様、良いお年をお迎えください。

2010年12月30日木曜日

2010 私にとっての10大ニュース その4

7.日本情報処理学会会員に
今年、日本情報処理学会に入りました。雑誌「情報処理」は興味深い記事もあり、少し難しいと感じる部分もないとは言えませんが、大変面白く読んでいます。情報処理学会の出している面白い本も何冊もあるので、色々と読んでみたいところですが、書籍は高いのです・・・。

8.中島みゆきコンサートツアー2010
人生で初めてのコンサートでした。
これもパソコンに負けず劣らずつい最近のことですが、感動を超えた感動でした。やはり生で聴くというのは全然違うもので、新たに聞いた曲もあり、また新たに発見のあった曲もあり、好きな曲が少し増えました。カラオケでは中島みゆきの曲だけで長時間可能な私ですが(もちろんその他のレパートリーもあります)、最近は「これを歌おう」という曲が入っていないという状況になってしまったほどです。DAMに行ったのに、なぜ"Nobody is right"がないんだ!?

2010年12月29日水曜日

2010 私にとっての10大ニュース その3

5.風来のシレンのナンバリングタイトルが2作品登場
私がもっとも好きなシリーズ「風来のシレン」の4と5が発売されました。どちらもよく出来ており、シレンはこうでないと、と思わせるに足る作品であると思います。今は風来のシレン5をプレイしていますが、そのおかげで桃太郎電鉄WORLDはまだ購入で規定ないという弊害もあります。一週間違いで発売というのは嬉しいですが、どちらもできるほどではないので困ったものです。

6.クラウドコンピューティングEXPOに参加
今年参加したイベントの中で、もっとも「勉強になった」イベントではないでしょうか。
分散コンピューティングをやってみたいという私にとって、クラウドコンピューティングは反対に位置すると考えていましたが、それは間違いであるということに気が付きました。分散コンピューティングとクラウドコンピューティングは聞いた感じ違うもののように聞こえるのですが、決して二律背反的なものではなく、両立するもの、いやむしろ、両立させて方が良いものであると考えました。
まだまだ深い理解には至っていないと思いますが、十分に勉強していきたいと考えています。

2010年12月28日火曜日

2010 私にとっての10大ニュース その2

3.論文「万年筆布教概論」執筆
万年筆研究会に入っていて、ようやく「私らしい」論文を書く事ができました。
http://s2.whss.biz/~tatuyan/fukyouron.pdf
で公開しております。
諸事情により、このサイトももう少しで移転する予定ですが、準備が整うまでのしばらく(3ヶ月ぐらいかかるかもしれません)は、こちらのサイトを見ていただければ、という次第です。

4.新しいパソコンを購入
こちらはもう少し後を予定していたのですが、今年に変更したものです。つい最近のことではありますが、デュアルブートにしておいても互いにディスクを見られるようにしていますし、打ちやすいcherryの茶軸ですし、とストレスのない素晴らしい環境を堪能しています。以前のパソコンではまずできなかった曲をききながらのドキュメント作成がスムーズにできるようになり、はかどっています。

2010年12月27日月曜日

2010 私にとっての10大ニュース その1

今年も残るところ、今日を含めて5日となりました。残り5日なので、1日2つずつ、10大ニュースを紹介して、今年をしめたいと思います。世間の10大ニュースはマスコミに任せるとして、私にとっての10代ニュースを紹介したい、と思っています。

1.C++とJAVAの勉強開始
まず一番目はこれ。なんだかんだでやっていなかったC++とJAVAでしたが、今年はようやく開始することができました。まだC程わかったとは言いがたいですが、じっくりと勉強して、十分に使えるようにしたいと思っています。

2.C言語のドキュメントを執筆
なんだかんだで面倒くさくて一昨年ぐらいまで実行できていなかったのですが、昨年の暮れから初めて今年にかけて、ある原動力を手に入れたこともあって、C言語の文法テキストと問題集を執筆することができました。準備が整ったら一般公開しようではないか、と執筆者たちで話し合っていますので、来年には公開できるかもしれません。

2010年12月26日日曜日

有馬記念予想2010

珍しく競馬ネタです。

残念なことにローズキングダムは出走停止ですが、自分なりに予想してみました。もっとも私は、馬券を買うことよりも競馬自体を見ることの方が好きなので、この予想はほとんど何の根拠もなく、ただ出馬表を眺めて行なっただけのものです。それ故、「当たらない予想」と思っておいて下さい。

まず、ブエナビスタ。万馬券狙いの人は敬遠するのでしょうが、あれだけ強い競馬を見せられてこの馬を外そうという気にはなりません。本命間違いなしです。

対抗はヴィクトワールピサ。仮にも凱旋門に挑戦した馬であり、ジャパンカップも3着でしたから、非常に順当と言えるのではないでしょうか。ちなみに、ローズキングダムは出走停止になってしまいましたが、でているならばここまでに上げた3頭で買っているので「ジャパンカップ1〜3着というジャパンカップしか見ていない買い方」になっています。

単穴はレッドディザイア。ブエナビスタの3歳の時のライバル馬で、アメリカに行ってからはぱっとしませんが、良いものを持っている馬だと思っています。

連下にペルーサ。毎度毎度出遅れてくれますが、それでもあの着順は立派です。今回も出遅れるだろうと予想しての連下ですが、出遅れなければ十分好走するのではないでしょうか。

誰が勝つか楽しみですが、自分のお金が大きく増えなくてもいいから、競馬を楽しむことが出来れば、と思います。帰省の直前、行ってまいります。

2010年12月25日土曜日

国語便覧を買いました

書店に行ってふと見たら国語便覧が売ってありました。自分が使っていたボロボロの国語便覧の倍ぐらいの分厚さでフルカラー800円。国語の基礎的な知識や多くの文学が載っていて、800円でこれでもかというほどの実用性と楽しさを内包しています。

中高生向けの資料集や図表、便覧には驚くほどの内容で安いものが多いのです。授業などで使うものを高くすると困る人が出るからなのかもしれませんが、そのおこぼれで、便覧などを大きな書店で購入して楽しむことができます。内容に対してずいぶんと安い物が多く、もちろん教養としても妥当な内容です。国語の便覧に関して言うならば、後ろの方にちょっとした熟語一覧などもあって、軽い辞書のように使うこともできます。100円均一でポケット辞典を何種類か買い集めたほうが情報量は豊富なのでしょうが、ポケット辞典にはない文学案内が楽しめる、というのが国語便覧の最大の特徴だと思います。

教養として日本語を学ぶのであれば、もっと別の本がいいのかもしれませんが、普段何かの折に手にしたりできる資料集として、そもそも読んで面白い一冊の書籍として、「お買い得」な国語便覧はいい買い物であったと思います。

前使っていたボロボロの国語便覧は、水に濡れて紙は曲がっているし、表紙は取れているしでもうダメ・・・という状態でしたので、捨てることにし、今回購入した新しい国語便覧を活用していきたいと思います。

2010年12月24日金曜日

ビュッフェ その効率的なスタイル

今週はブログ休みを2回してしまいました、申し訳ないです。

私は食べ放題の店、とりわけビュッフェスタイルの店が好きで、平時でも探す他、この帰省でも数回友人と合うそのほとんどはビュッフェスタイルです。年齢的なものもあるのでしょうが、ビュッフェスタイルの提供方法は効率的であると考えています。ただ、食べ過ぎたり、あるいは廃棄などの問題もあるでしょうが、それをうまくクリアできるならば、普通に注文してだしてくれる店に勝るところありと考えています。

食べ放題に比べて、ビュッフェスタイルは「好きなものを好きなだけ」取ることが出きる、つまり複数人で行ったときに何種類もの単品を頼んでそれをみんなで分けて食べる、ということを一人でもできるのが強みだと思っています。逆に言えば、大人数で行く時にはビュッフェスタイルにする必要はなく、単に食べ放題であれば良いということも言えます。オーダービュッフェと言われる、いわゆる「注文式の食べ放題」は一品あたりの量が決められないのにたいし、ビュッフェスタイルは「ほんの一口」ができる、というのが素晴らしいと感じるのです。

店側にしてみても、単品を4つ出して、4人が食べるというのは変わりません。ただ、4人がそれを共同で食べるか、それとも一人ひとり違うものを食べるか、というだけの違いです。それを考えれば、ビュッフェスタイルというのは、多くの人が多くの品を共同で食べることにより、店側は一通りの品を出すだけ、客側はいろいろな味が楽しめる、ということになり、好みという観点から本当に効率的であると感じます。

もちろん、出したものが残るなどの問題もあると思います。しかし、最もシンプルに考えたとき、いくつもの「単品」をいろいろな人で共有でき、店側の出すもの・量も単品で出す場合とそう変わらないビュッフェスタイルは、効率的な手段の一つであると感じる次第です。

2010年12月22日水曜日

ようやくパソコンの引越しが終わった!

新しいパソコンを買って1週間がたち、ようやくパソコンの引越しが完了しました。パソコン引越しソフトを買わず、LANケーブルもけちったのでUSBでの大移動でしたが、なんとかかんとか、使えるパソコン環境を構築することができました。この場合の使える、というのは、言うまでもなく「自分が使うのにストレスなく、過不足なく使える」ということです。

新しいパソコンではUbuntu10.10とWindows7をDual bootにしましたが、この時にWubiを使ったため、Ubuntuは30GBしか確保していません。しかし、Ubuntu側から様々にショートカットを貼るなどして、基本的にはWindowsのディスクからほとんどのファイルを読み出すようにしたので、難敵pTeXLiveを入れても問題なく動いています。pTeXLiveとDropbox(2つのアカウントで利用)がUbuntu側で大きなものですが、幸い、これらを合わせても30GBには遠く満たないので、無事に動いています。

Microsoft Dreamsparkを用いて、Windows側にも優秀なプログラミング環境を用意していますが、Linuxは天下のGnome Compiler Collectionがありますから、どちらかというとLinuxの方が便利です。普段使いの用途や、自分の発言「Windows7よりUbuntu10.10の方が使いやすい」から察するに、このパソコンはUbuntuで使うときの方がWindowsより長そうです。実際、今このブログもUbuntuから打っています。

Microsoftの製品は値段が高いので、基本的に敬遠してしまうのですが、あちらはあちらで便利な面もあるので、Windowsと併用して、Linuxを使っていければと思います。互いに足りないところを補うように使えればいいのですが、私がよく使う機能はLinuxに固まっているので、Windowsにお世話になる機会は少ないかな・・・。

2010年12月20日月曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう 番外編1

12まで来たこのシリーズですが、どうやら年内に終わるのは無理そうです。まぁ、いつ終わると決めたわけでもないのでいいかな、と。

ここで、少し番外編を入れてみます。上記の「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200は心守歌のアルバムまでしかカバーしていないので、その後に出たオリジナルアルバムからお気に入りを紹介したいと思います。

・銀の龍の背に乗って:みゆきさんいわく「知られている曲も良し悪しよね、間違っちゃったらすぐ分かるけど、はじめにイントロですぐ分かってもらえる・・・。」との歌。私自身はずいぶん長く聞いている歌の一つです。「やわらかな皮膚しかないわけは人が人の痛みを聞くためだ」の歌詞が一番心を打ちます。離島医療をテーマにしたドラマの主題歌ですが、相応しい歌詞であると感じました。

・無限・軌道:無限大にあるということをテーマにした曲。数学的にも難しいとされる無限大ですが、数学的な意味以外でも無限大はいろいろな意味を持つということを見せてくれます。次の「メビウス」もこれと同じことをいっているように感じますが、こちらのほうがより具体的です。

・メビウスの帯はねじれる:位相数学等で有名なメビウスの帯。トポロジーという分野のひとつだったと思いますが、詳細は知りません。その、メビウスの帯をたどっていったときに無限に現れるねじれを表しているように感じます。日常という、一見捻れた無限を表していると思ったのは私だけでしょうか?

この、番外編を全部で5回やろうと思っています。
次回は「ララバイSINGER」、その後は「I Love You答えてくれ」「DRAMA!」「真夜中の動物園&シングル」各1回の予定です。

2010年12月19日日曜日

中島みゆきtour2010に思う

先日、中島みゆきtour2010にいってきました。感想を書こうと思ったのですが、上手に書かないとネタバレになってしまうので、ならないように気をつけて書こうと思います。

一番に感じたのは、愛をはじめとした、人間性のごく根本的なことを扱った曲も好きだけれども一番すきなのは街中の、あるいは日常のごくありふれた事物を扱った歌が一番好きだ、ということです。

それは、私の好きな曲にも現れています。特にすきなのが、帰省・ファイト・蕎麦屋・ホームにて・タクシードライバーあたりですが、どれも日常の風景を切り取ったように感じます。ごく身近な曲に深いと思わせる歌詞が入っているのが好きです。

私は、オールナイトニッポンが終わってからのファンなので、みゆきさんのMCを直接聞くのは今回が初めてでしたが、大変に面白いMCでした。最後の曲で目頭が熱くなり、身震いしたのは言うまでもありません。

3時間弱でしたが、最高の時間をすごすことができてよかったと思っています。

2010年12月18日土曜日

吐く息が白いということ

なぜこんなことに昨日まで気づかなかったのだろうかと訝しいのですが。


道を歩いていて、すでに吐く息が白い季節になっています。小さい頃は、毎朝の投稿の時に、白い息を面白く思ったものでした。今、その原理が理解できていて、面白いものにはかわりないはずなのに、それに気づくことすらできない、余裕ない自分がいることを情けなく思っています。

吐く息が白いということは、つまらないことなのかもしれません。でも、そんなつまらないことであっても、それに気づくことができるか、気付けないかではずいぶんと違う。今年は15日までにすべての年賀状をかきあげられませんでしたが、それは吐く息が白いことすら気付けない余裕の無さ故ではないかと思います。

余裕のない生活は、自分の心も疲れ果てさせます。精神的に余裕のある生活を送ることが出来れば、それが一番なのでしょうが、なかなかうまくいかないものです。

幸い、この土日は少し休息できるので、一息ついて、新しくやってきたパソコンの整備をしながら、ひとまず年賀状を書き上げようと考えています。

2010年12月16日木曜日

新パソコンを入手して

以前のaltはきかない、左カーソルキーはきかないetcの、もうそろそろ寿命かなというようなパソコンから、新しいデスクトップに乗り換えました。とはいえ、その乗り換え作業はまだまだ残っているのですが・・・。

ひとまず、新しいパソコンに変えてみて思ったのはものすごく速いということ。前のPCがCeleronM 1.60GHzで2GBメモリだったのに対し、新しいPCはPhenom II X6 2.80GHzに8GBメモリ。どちらも4GB弱のReadyboostをかけていますが、とにかく新しいパソコンは(以前のノートが2つ前に使っていたデスクトップよりもずいぶん遅くなってしまった反動もあってか)ひさしぶりに自分の仕事をストレスなくこなしてくれるパソコンです。

キーボードもFILCOのMajestouchを買いましたので、非常に打鍵が楽しく、また速いのですが、残念ながらこのキーボードを使っていると、皆様に「打鍵音がうるさい」といわれてしまいます。それゆえ、時間帯etcによっては使えない場合があるということで、無料でついてきたメンブレン式のキーボードもつないで、うるさくてもいいときはFILCO、静かに打つべきときはメンブレン式、と使い分けることにしました。キーボードによって打鍵速度が変わるというのを地で行っています。

プログラミングを始めて、もうそろそろ8年になるでしょうか。PCにしても、これで7台目です。5台目も満足いく性能でしたが、やはり年数によって変わってくるわけで、7台目はやはり5台目を上回っていました。正直に吐露するならば、これを100%稼動させるには相当に学ばねばならないと思っています。せっかくなので、これを用いて「アルゴリズム・イントロダクション」の第3巻にのっている並列アルゴリズムなどを、数種のスレッドプログラミングによって実行してみたいと思います。実際に、コアがひとつの場合に比べておおむね6倍速となるのかが楽しみです。

とはいえ、ひとまずは学校の課題。データ解析の課題が出ているのですが、折角なので64bit符号なし整数を6分割し、それぞれについてAKS素数判定法を用いた時間と他の方法による時間の比較でも行ってみようかと考えています。素数判定の計算時間について、AKS素数判定法がどの程度有効なのか(あるいは有効でないのか)を統計学的に理解することができれば、と考えています。

2010年12月15日水曜日

年賀状受付開始に思う

今日12/15といえば、年賀状の受付開始日です。ということからわかるとおり、今回のブログは年賀状が話題です。

私は基本的に、既製のイラストが入った年賀状に、多めの文章を手書きし、宛名も手書きで書いて出す、というスタイルです。出す人数の多さを考えれば、手書きというのはかなり勇気のいる選択ですが、それでもなんとかかんとか出しています。

で、今回書きたいのは、もらった年賀状をどう扱うか、についてです。
と言っても、年賀状をもらったらそれについて返すかどうか、とか、捨てるかどうか、といったような、人の挨拶をないがしろにするような事について論ずるわけではありません。年賀状は挨拶であり、挨拶されれば返すのは人として当然の礼儀だと思います。それがあまり行われていない、ということについては本ブログでも幾度も書いたことですが、これについての一元論的な話ではなく、また別の話で、年賀状をどう見るか、というのが今回の話です。

プラチナが年賀状を書くコンクールを行っていて、それについては肯定的に見ています。その横でやっている、一部製品に特典がつくキャンペーンのほうがより魅力的だと思います。このことについては、以前このブログで書きました。ですが、これは個人レベルで行うべきではない、と思うのです。

小学生の頃、確か3年生の時だったか「年賀状コンクール」というのがありました。年賀状を書きなさい、これを年始に掲示し、相互評価して得点の高い人に賞状を与えます、というものでした。これについては、「誰に対するものでもない年賀状」であり「デザイン性の高い年賀状」を書けば、それで良いのだと思います。しかし、この年賀状コンクールの欠点は、当時は何も思わなかったのですが、今考えてみれば見当たる欠点は、「年賀状は学校の先生に送ってもいいし、学校に持ってきても良い」となっていたことでした。これは「学校の先生に送る年賀状を評価する」ということです。ある特定の人に送る、特定の人に当てた年賀状を第三者が関与してそれを評価する、ということです。ある特定の個人に当てた手紙を、関係の無い人が評価する、というのは、まったくもって気分のいいものではありません。その善し悪しにかかわらず、です。

そして同時に、「来た」年賀状について、自分自身が評価を下すのもまた不要なことであると思います。この人は悪筆だ、この人はデザインが上手い…などと、そういった「評価」はあるのかもしれませんが、何よりも「挨拶をしてきた」ということが肝心なのではないかと思います。心がこもっていれば、別に悪筆だろうが、どこかで見たことのあるデザインだろうが、関係ありません。そこを勘違いして、年賀状を「評価」する人がいますが、実に無意味なことであると思います。

私は御世辞にも達筆とは言えません。文章も稚拙なものですし、イラストは既製の印刷されたものです。それでも、相手の喜ぶ顔を考えて、一生懸命に年賀状を書いています。その年賀状が「評価」されるような事は想定していません。心のこもった挨拶をするということが大切なのであって、デザインが美しいだの、字が美しいだのというのは年賀状に必ずしも必要なものではありません(美しいに越したことはないですが・・・)。

勘違いした「評価」をするのは無意味です。年賀状の文章がうまいとか、字がうまいだとか言うのは公言する必要は一切ありません。そんな「評価」よりも、自分が年賀状を出していない人から来たときに、その人の心遣いに感謝して挨拶を返すということ、それから、年賀状を返してこない人をどうしたのかと心配することのほうが、年賀状の意義からすれば、より大切な事ではないでしょうか。

2010年12月14日火曜日

「プログラミング、何をどう教えているか」

先日「忙しくとも休む暇を」と書いている割に、最近はずっと予定稿ですが。

タイトルは日本情報処理学会の雑誌「情報処理」から。プログラミング教育について論じた連載です。

その連載ではプログラミングの教育について色々なことを述べているのですが、少なくとも私が今まで読んだ中には、ツールとしてのプログラミングを教えているという感覚でした。勿論多くの人にとってプログラミングはツールであり、私もプログラミングをツールとして用いることがありますが、しかし、数学同様に、プログラミングはそれ自体にまた面白い世界を内包しています。

プログラミングは数学以上に「ツール」として見られていることが多いように思います。それ故、説明はかなり粗い。極論すれば、道具には道具なりの扱い方がある、という「使えればいい」程度の教え方のようです。勿論、それをどう使えるようにするか、ということがこの連載ではかかれているのですが、どうにも、プログラミングはツールである、ということから離れていないような気がしてなりません。

競技プログラミングのような世界がある。プログラムそのものを趣味としている人がいる。私もそんな一人で、自分の執筆したテキストには「プログラミングとは一般にはコンピュータに処理させたいことを記す、ということであるが、これではあまりにも味気ない。…(中略)…コンピュータを俳優とし、プログラマは脚本家と監督を兼ねている。こうしてつくられたドラマをプログラムとよんでいる。」と書きました。けれども、そう感じる人はあまり多くないのか、あるいはそこまで深いことを感じ取れるレベルまで教えることはできないのか、道具という感を払拭出来ていなくて悲しい限りです。

友人たちがよくプログラミングの質問に来ます。その友人たちの多くは、プログラミングを、訳の分からない、厄介な、しかし使いこなせないといけない道具のように扱います。まるで、プログラムをいやいややるのが義務感のような、苦痛を顔に表します。それを見ていて、心が痛みます。

プログラミングは、コンピュータを相手につくるドラマです。そんなクリエイティブな行為を、多くの人が「ただのツール」として捉えていて、あるいはそう教えていて、嫌な顔をされてしまう。私はそれがいやでたまりません。

この連載はまだ始まったばかり。じっくりと読んで、ツールとしてプログラムを教えるだけでなく、プログラミングそのもののクリエイティブな楽しさをこのように教えている、という記事が見つかることを期待しています。

2010年12月13日月曜日

21歳になって

今日、21歳となりました。

21歳というのは実に中途半端に思います。
大抵の人が20歳を節目にしているから、21歳は余計に節目として見えにくいのかもしれません。

21歳。私にとって、この21歳と言う年齢はどうなるんでしょうか。
いや、どういう年にしたいのでしょうか。

自分らしくありたい。
人格者でありたい。
絆を大切にして、本を、文具を、茶を、プログラミングを、そしてなにより後輩を好む…そんな21歳にしたいと思っています。

21歳。何が待ち受けているのか、不安ではありますが、そのなかで成長していくことが出来ればとおもいます。

2010年12月12日日曜日

量が少ないから無視する、ということの怖さ

物理では微小量を無視することがあります。例えば、境界層気象学では平均の状態方程式の導出に対して乱流成分が小さいから無視します。このように「小さいから無視をする」ということですが、これはそう簡単に適用してはならない、という風に思います。勿論これは、自然科学的な問題を倫理的問題に適用してはならない、ということに包括されるのですが・・・。

物理量に対して、その誤差が0.1%程度であれば無視できるという場合があります。その一方で、ローレンツアトラクタのように、小さな誤差であっても無視してしまうと全く違う解になるようなものがあります。前者のように扱っていい問題と、後者のように扱うべき問題には明確な違いがありますが、そこで絶対に後者のように扱うべきなのが、人間に関する問題です。

我々一人ひとりは、地球上に全人口に対して考えれば、0.000001%にもなりません。であれば、それを無視しても良いのか、と。仮にその増減を無視しても良いと仮定すると、とんでもない結論が導かれます。「1人ぐらいの増減は無視しても良い」ということから、人を殺しても問題がない、という極論に至ります。

あくまでも極論です。しかしながら、「そんなモノはただ一人だから」と無視するだけの、二律背反的な多数決には問題が出てくる、という風に思います。多数決の原理などといいますが、要は少数派の意見が取られないということ、そしてその少数派の意見は「無視」されるのです。

少数派意見の怖いところは、人間の認識上、少数とみなされない人数であっても、多数決の原理の前では同じということです。過半数決定、というのであれば、99%が賛成で残り1%が反対であろうが、51%賛成で残り49%反対であろうが、結論は同じなのです。

量が少ないから無視をする。これは物理過程などで、理論上必要な場合には行わなければ議論が進展しません。しかし、そこには十分な考察が必要である、というのが人口の例から言えます。

その怖さを忘れて「無視して・・・」とあっさり書いているうちに、人間を無視するということを覚えてしまうのは怖いことです。そのことを理解した上で「無視する」ことを勉強しなければならないと思いますし、いつ、どこで無視して良いのか、そのことを真剣に考えるべきだと思います。

少数といえば、昔、1/100は皆たいしたことがないと感じるが、10000/1000000は結構な人数である、と感じる、という話を聞いたことがあります。どちらも約分すれば同じ値なのですが、この「人数の差」は、1人であれば無視してよく、同じ割合でも母体が大きくなれば無視してはならない、ということを意味しているように思います。単に母体の大きさだけで無視すべきかどうかを、人間が知らず知らずのうちに持っている、その恐ろしさを痛感しました。

村八分は非常に怖い刑だったといいます。その根底は「無視」にあります。我々人間は、無視するということの怖さを考えて、それを常に意識して、その上で無視せねばならないと感じました。

2010年12月11日土曜日

「死ね」という言葉に

近頃、付近で「死ね」という言葉を言っている人を少なからず見かけます。当人たちは冗談で言っているのでしょうが、本当にその言葉の重さを分かっていっているのだろうか、と不安に感じることがあります。

死ぬほど〇〇、〇〇で死ぬ…といった比喩表現は、死を「最も悪い物」として扱っている暗喩とすれば納得できます。その暗喩の可否はともあれ、ひとまず暗喩として捉えれば、その当人が命を失うというわけではないことがわかります。まぁ「死ぬほど難しい」については、異論があるのですが・・・(死ぬことは、自分の心の整理さえつけばそう難しいことではないわけで。ハリーポッターと賢者の石のニコラスフラメルの態度など見てみればわかりますし、同シリーズでは、死を「難しい物」とも「恐ろしいもの」とも扱っていません。)

話が少しそれてしまいましたが、「死ね」ただそれだけの冗談には、他の解釈の余地がありません。会話も横から聞こえてきますが、全く脈絡もない「死ね」ですから、解釈のかえようがないのです。私が中学生の時にお世話になった音楽の先生は「死ねと言った相手がそれに従って死んだらどうするのだ!お前は責任を取れるのか!」と烈火の如く叱りつけていましたが、その叱っていた場面は間違い無く今の自分に強い影響を与えています。そして、その場面を覚えているからこそ、冗談であっても「死ね」と普通に言ってしまう風潮を悲しく思います。

別に「死ね」といったから相手が死ぬ必要はありませんし、責任を取る必要はない、と考えるかもしれません。でも、「死ね」ということがどれだけの意味を持つのか、そして、その相手がまだ冗談とうけとれるだけの余裕がある時でなければ、その言葉が一体何を起こすのか、想像してみて欲しいと思います。

私自身が、人に「死ね」と言うとすれば、それは自制がきかないほどに感情を害した時を別にすれば、相手が自殺したいと言うまでに苦しんでいる時でしょうか。それも、死ねとは言わず、「そんなに苦しいならば死んだらいいじゃないか、なぜ貴方はそこで戸惑う?貴方が死んだら私は困るけれども、だからといって、私が困るから貴方に死んでほしくないというのは私のエゴに過ぎないんだから」などということでしょう。

「死ね」とよく言う人が、何かの集団の選挙で、見事その集団の長になったと聞きました。集団そのものが「死ね」と言われるほどにひどいものにならないことを祈ります。

2010年12月10日金曜日

腹ふくるる心地ならば笛を自由に吹きたい

Bugler's Holiday、「トランペット(ラッパ)吹きの休日」、というとルロイ・アンダーソンの名曲であり、運動会の定番曲でもあるので、聞いたことがある人もいらっしゃるのではないでしょうか。私の属しているリコーダークラブで、1年ほど前に発表したので、自分も吹きましたが、その時、この曲の言うところの「トランペット吹き」の意味を知りました。

トランペット吹きというのは、軍隊のトランペット吹きなのだそうです。だから普段は勇ましい曲、軍隊らしい曲しか吹くことができないのだそうです。だから、休日には自分の好きな曲を思う存分好きなように吹いているのである・・・と。実際、その情景を思い浮かばせてくれる曲だと思います。

有名なジョークですが、ある日公園を散歩していると「ノー、ノー!」と叫んでいる人を目にします。不審に思った人が警察に通報すると「彼はホワイトハウスのイエスマンで、休日だから、普段は言えないノーをああやって言っているだけで、何も怪しいわけではない」と言われます。極端な例かもしれませんが「腹ふくるる心地」と昔の人がいったような心地を、うまく解消しているような例だと思います。

人間には言いたいことがあっても、それを十全に示すだけの語彙があるとは限りません(むしろ、人間のごく微妙な気持ちを表すのに全くそのとおりに当てはまる言葉というのは存在しない場合が多いです)。勿論、言いたいことをすべて言えるわけでもなく、むしろ言わぬが花というとおり、言わないことも多くあります。そういう事ばかりを続けていると「腹ふくるる心地」になってくる。勿論、それを言ってしまえば、腹はへこむのかもしれませんが、あまりそればかりやっていると嫌われてしまいます。

それだからでしょうか、私は腹ふくるる心地があるとき・・・まぁ私は普段、いいたいことを遠慮無く言う、およそ謙虚さとは程遠い人間なので、そういう事は多くはないのですが・・・、リコーダーでふける限りの曲を思う存分大きな音で吹きまくるか、あるいは自分の好きな曲を大声で(友人曰く「カラオケでマイク無しでも問題ないレベルの声」で)歌います。色々なストレスがある中で、腹ふくるるストレスは、そのように解消するのが一番であるように感じます。

息を大きく出す、という行為は、腹ふくるる心地の時に一番。そう思いつつ、大声で歌って友人に「今日も聞こえてきたよ」と言われて、恥ずかしい思いです。

2010年12月9日木曜日

「忙しい」が「心を亡くす」こと

そのことは間違いないことだと思うのですが、忙しいということは確かに心を亡くします。ものすごく忙しい、というときは、先ず間違い無く字も返答も乱雑です。

あれもしないと、これもしないと、と思っているときに数値計算の質問やプログラミングの質問がやってきてもまともに答えられるはずもなく、非常にぶっきらぼうな返事で返してしまいます。「あそこをああしたらええやんか!」という感じで返答してしまいます。色々な字がある中で、この字は実に良く考えて作られた字であると思います。

忙しいからと言って心をないがしろにすることがいいことのはずがありません。忙しい忙しいという中で、必ず一息付いている暇がなければ、心そのものが本当の意味でなくなってしまいます。つまり、忙しいからと自分のことばかりに集中していては、感動する心や、友人を大切にする心をなくしてしまいます。また、一般に「心ある行動」と呼ばれる行動をとることもなくなります。忙しい忙しいといつもそればかりに集中していては、心を本当に失ってしまうと、ここ最近の忙しさに思いました。

忙しい時だからこそ、メリハリをつけて休むことができる時間を取らなければならないと思います。そうしなければ、ほんとうの意味で心ある人間でなくなってしまうから。三木清は、著書「人生論ノート」の中で「幸福とは人格である」と述べていますが、人格は心なくば身につくものではありません。

私の好きな中島みゆきさんは「命の別名」の中で「命につく名前を心と呼ぶ」と言っていますが、それを考えれば忙しいということは、命を亡くす、つまり死ぬということを意味します。忙しいという仮死状態を自分の中で維持することは自分にとっていいことであるとは感じません。忙しいと言うのは仮死状態である、そのことを理解した上で、忙しさにかまけることなく、休む時間を取りたいと思います。

2010年12月8日水曜日

ネタ切れではなく

最近のブログの更新の頻度がいまいちなのはブログのネタが無い・・・というわけではなく、ネタはいくらでもあるのですが(その気になれば予定稿60日分書きだめできるかもしれません)、バタバタしているためです。

あれこれ、特にテスト云々がある状況にくわえ、レポート…とここまでなら学生ですが、これに追加して、何故か色々な(主にコンピュータの)質問、と・・・。先週の水曜日だったか、確か部活&質問回答&入浴&夕食で夜は過ぎていきました。これではBlogを書いている暇も殆どありません。

ということで、最近ややブログの更新が滞り気味ですが、ご容赦くださいませ。12/16ぐらいには元のペースに戻ってくるのではないかと思います。

2010年12月7日火曜日

Fountain pen hospital 2011カタログ

パソコンが重く、あまり書く気にならないので、今日は少なめということで。

本日、Fountain pen hospitalの2011版カタログが届きました。表紙はヴィスコンティのホモサピエンス。なかなかそそられる写真ではないですか。

中身をゆっくり見ている暇はないのでまだざっとしか見ていませんが、とりあえず見たのはパーカー。チェックのセンテニアルはもうないのです。いの一番に見ましたが、やはりここにもないのかと思うと、絶版という事実を認めねばならないと思った次第です。

2010年12月5日日曜日

差別のパラドックス

差別をするというのはみっともないということですが、しかしながら、差別そのものにはパラドックスがあるということを考えます。なお、ここでは「差別」を、新明解国語辞典に書いてある意味のうち「(社会的な偏見に基づいて)弱い立場にある(何らかの不利な条件を負っている)人に対して、不当に低い待遇を強いたり、侮蔑的な扱いをしたり、すること」の意味で用います。

内容に入る前にはっきりさせておきたいのは、私は「差別をしても良い」と以下の文章で表明したいのではなく、「差別はするべきではないが、容易に「差別をしない」と言えるものではないから、注意深く行動すべきである」ということです。

差別をするのは良くない、という意見があります。これについて完全に否定する人はそう多くはいないと思うのですが、ここには社会的な偏見が既に含まれているように思います。
「差別は良くない」 という偏見です。
「差別は良くない」として、差別する人を敬遠しては結局のところ差別になっている。つまり、「差別は良くない」との主張は「差別をするのは悪だ」という偏見であり「差別をする立場」を差別している、ということになります。つまるところ「差別は良くない」ということがそもそも差別だ、という意見になってしまうのです。

そうすると、「差別」とは一体なんなのだ、「偏見」とは一体なんなのだ、ということになってしまいます。

偏見というのが社会全体に深く浸透していれば、それは差別と感じられなくなってしまいます。
文化部についての差別、と言って幾人がそれをわかるでしょうか?
公務員叩きは差別でしょうか?
そういった問いかけをやっていくと、差別というものの根底たる観念があやふやになってしまいます。

結局のところ、差別は多数決の原理にしか過ぎない。しかし、多数決の原理は同時に危ういのです。多数が常に最良を決定するわけではないからです。ものすごくつまらない例で言えば競馬ですし、極めて重要な例で言えば個人情報保護法です。前者は、一番人気が勝つとは限りません(だから面白いのですが)。後者は、多数が良いと思って導入したものの、「クラス名簿が作れない」などといった声もあり、最良の形であったとは言い難いようです。

差別の根底が多数決の原理にある偏見であるとするならば、我々は何を持って差別をしないと言えるのでしょうか。差別をしない人間とは、一体どのような人間なのでしょうか。

私は、差別をしない人間ではありません。以下のようなことを考えていますが、さて、これらは差別なのでしょうか。意見を伺えれば幸いです。
・自殺をするほどの苦しい思いをしている人は体の面からは生きられても心の面からは既に生きられない状況にあると考えて良いだろう。そのような人に対して「自殺をするのは最低の人間だ」というような人は、それこそひどい人間ではないだろうか。
・未成年飲酒をして、あるいはさせている人間は法の遵守という面で大切な点を抜かしていて、その点において自分を甘やかしているのではないか。
・自分より立場の弱い人に対して立場を利用して無理を押し付けるような人は、立場の弱い人への人権という観点での配慮に欠けたるところがあるのではないか。

私の考えが差別かどうか、そして、差別あるいは差別でない根拠は何かと考えると、自分ではもう「差別」というものについての実像がつかめなくなってきました。

2010年12月4日土曜日

国語の多読教育

堅い話になるかもしれませんが。

英語教育では、多読を大切にしている先生が少なからずいます。偶然にも、高校、大学とそのような先生に会い、全く同じ多読教材であったということがありましたが、ともあれ、それが役に立っていることは間違いありません。

これを初等教育の国語科に活かすということはできないものかと最近思うようになりました。

高校になって現代文という科目があり、そのなかでは「解く」国語というものを習います。しかしながら、いろいろな先生の話を総合しても、たいていは「書いていることを正確につかむこと」が重要でした。そして、「書いていることを正確につかむトレーニング」は、確かに問題集でもできるのですが、わざわざそんなことをしなくても、高校時代は現代文で苦労することはありませんでした。それは、普段本を読んでいて、本の中で「書いていることを正確につかむ」ということが自ずと養われるからです。

読書感想文を書くことも大事なのかもしれませんが、初等教育における国語では、年間5000ページ以上の多読を課することが出来れば良いのではないか、と思います。それも、漫画・コミック以外でです。年間5000ページというとたいそうに聞こえますが、ハリーポッターシリーズを通読すれば6000ページ弱にはなるはずです。1年かけてハリーポッターを読む、というのでは少ないかもしれません。でも、実際それだけ、「授業外で」読んでいる小学生はどれぐらい居るでしょうか。

5000ページ分の文庫・新書等を読もうと思うと、一日あたり15ページ弱読む必要があります。15ページ弱ということは、短めの節を一つ読むぐらいです。それでもやった方がましか、と思うのです。

5000という数字には何の根拠もありません。10000ページぐらいのほうが良いかもしれません。「本を買うお金がありません」という必要はありません、小学校には図書室があるのだから。

一日30ページ、ハリーポッターと賢者の石の第1章と同じぐらいとしましょう。毎日続ければ11000ページ弱です。どうですか、これぐらいなら読めるのではないですか、とおもいます。これを初等教育で課すことが出来れば、国語教育がどうの、英語教育がどうの、若者の日本語がどうのという問題も、少しは解決できると思うのですが。

読書日記をつければ良い。それを1週間ごとに回収して、年間で10000ページの読書を目指すようにすれば良い。日記に書くことは、ただ、何の本のどこからどこまでを読んだか、という程度のことでいい。本の面白さを知る事もできるだろうと思います。

一日10分、などという人もいますが、読書は積み重ねてやるものではないと思います。読みたい気分の時には一気に読みたいでしょうし、乗り気でなければ数ページでやめるかもしれません。だからこそ、1年で、授業外で多くのページ数を読むように課すことが出来れば良いのに、と思います。国語の多読というのを実践してみれば良いのに、と思います。

小学生の頃から本が好きでした。部活に完全に打ち込むようになる中学生にいたるまで、それは変わらず、多いときには1週間で2000ページほど読んでいました。今でこそ専門書ばかりですが、日本語の書籍を読みたいという思いは変わりません。まぁ、最近は物語よりもちょっと違った本のほうが好きなのですが・・・。

学校の国語で「精読」を教わるかもしれません。でもそれは練習には不十分。だからこそ、多読という概念を初等教育における国語に取り入れてみてはどうかと思うのです。

2010年12月3日金曜日

壊れゆくキーボード

もう後1週間少々で今打っているキーボードとも別れられますが。

ついに左Altもきかなくなりました。
左カーソル・デリート・左Altキーと、中途半端にきかなくなると鬱陶しい物ばかりがきかないので、困ったものです。打てなくて困るということはないのですが、とりあえず、早急に新しいキーボードを買わねば、という次第です。気持よくAlt+F4ができないのは結構鬱陶しいので。

良いキーボードがほしいという思いは少し前から持っていましたから、今回はついにという感じです。東プレは高すぎるので、フィルコの者にしましたが、それでも次はついにメカニカル式キーボード、どれぐらいの出来か大変楽しみです。

もっとも、それを打ちながらいろりろと作業をしなければならないので、あまり暇ではないのですが。どうか、引っ越すまでキーボードが持ってくれますように、という次第です。

2010年12月2日木曜日

テレビって

どのチャンネルをつけても
同じことを言っている
CS放送なら別なのかもしれないけど
どのチャンネルでも
どのニュースでも
同じことを言っている。

バラエティ番組ならば
違うことをしているのかもしれないけれど
根本は同じで
多数に受けることをしているだけ
だからクイズ番組でも
理系の問題は出ない。
漢検1級の問題は出ても
数検1級の問題は出ない。

どのチャンネルでも
どの番組でも
やっていることは代わり映えせず
出ている人も大きく変わらず
面白いのかもしれないけれども
多数に見えることだけを楽しんでいる。

経済的には多数に見せなければ
問題が生じてくるのだろう
だからといって
多数に迎合する番組だけを
放映すればいいのだろうか

何よりも
ニュースでは
どの番組でも同じことを言う
TVを見る皆が
その情報を幾度聞いたことだろう
聞き飽きるぐらいに重要な情報は
警報や指名手配犯がうろつくことか
別に裁判や
歌手の死など
こぞって放映するほどのことなのか
連日に放映することなのか
同じ裁判でも
同じひとりの死でも、
全く放映されない事のほうが
ずっと多いというのに。

テレビは
皆が一様な顔をしてみている
大衆化とも言える
そんな人を相手にしているように見える
だからテレビ自体が
みんな一様になっている

オリンピックの時期だからと
テレビを観る人は必ずオリンピックを
応援せねばならないのか
ワールドカップの時期だからと
ワールドカップを
応援せねばならないのか

同じオリンピックでも
テレビは
科学オリンピックを
大々的に取り上げはしない
同じ甲子園でも
テレビは
パソコン甲子園を
大々的に取り上げはしない

テレビは
多くの人が理解できそうなことを
くり返しくり返し伝える
スターの結婚をひたすら伝えて
科学五輪の活躍を全く伝えない

放映されていることを
皆が知りたいと思っているのか
放映されていることが
知りたいと思うことの全てなのか
テレビは
人々を一様に扱う
顔のない人と扱う
だから自分自身が
一様になっていっている

テレビを見るのはやめにした
息抜きで見るのは別にして
ちょっとしたゲーム感覚で
クイズをすることはあるけれども
テレビを見るのはやめにした

一様に皆が
同じことを言う
それを知らないのは
まるでいけないことのように

この前の五輪の結果が言える人
貴方、この前の科学五輪の結果言えますか?

テレビは
ただひたすらの差別の塊だとおもう
低俗だ云々という話ではなく
話に進展が見られない
いつも同じものばかり

違ったニュースを報道しないか
違った分野を取り上げてみないか
いつも漢字のクイズではなく
たまにはイデアルのクイズにすればどうだ

視聴率のために
テレビは今日も
いつもと同じ番組を
いつもと同じように流している
私のここでのつぶやきなど
全く知る由もなく…。

2010年12月1日水曜日

師走の始まり

12/1、ズッコケ三人組のハチベエの誕生日ですが、一般的には師走の始まり、というところでしょうか。忙しい時期であり、私も例にもれずやることの多い月です。

師走という単語は、昔は「先生すらも走る」という意味からきていたようですが、最近は先生のほうが学生よりも忙しいですから、師走というよりは弟子走というべきなのかもしれません。使いっ走り的な意味の弟子はいつでも走っていて、それに加えて先生も…というのが原義なのでしょうが、先生のほうが何かと忙しい昨今、むしろ弟子が進んで走らねばならないという気がします。

忙しい12月ですが、誕生日もあり、JOIもあり、クリスマスもあり、年越しもあり、有馬記念もあり…と、楽しいことも多くあります。忙しい中でも自分らしく、1ヶ月を過ごして2010年を締めくくりたいものです。

2010年11月30日火曜日

Thermo magの活躍

久しぶりにThermo magを復活させました。理由は幾つかあるのですが、とりわけ
1.時間を置いて飲むこと
2.何かの説明で呼ばれるときに紅茶を持っていけること
が便利です。大きめのサーモマグなので、それにたくさん紅茶を入れてから、呼ばれたところにやっていく。それだけで結構お茶を飲みながら話ができそうです。

なにか教えてくれと呼ばれたときに、時間がかかる場合にはやはりお茶がほしい。とはいえ、人に淹れてもらうのも悪いし、自分で好きなのを入れたいというのがあり、埃をかぶっていたサーモマグを起こすことにして、きれいに洗いました。

もともとの理由は、朝起きたときにとりあえず薬をのむため、ですが、しかしながら、それだけではなく、いろいろな用途に使えるのだから、もっと活用せねばなるまいと思った次第です。

2010年11月28日日曜日

いくらでも本がほしい

本というのはいくら読んでもまだ次が欲しくなるもので、それだから不思議です。

とりわけ、専門書。買って、完全に読みきったわけでもないのに(むしろほとんど読んでいないのもあるのに)、次から次へと欲しくなり、中古で買ってしまう。そして少しだけ読んで、読みたいと思いながらも腰をすえて読まず、でもまた本が欲しくなり・・・不思議です。

本が好きです。専門書が特に好きです。いくら読んでもまだ新しい知識が、とばかりに本を買います。いくら買っても飽きることなく本を買い、そしてその多くは読み切ることなく、でもそれなりに読まれて…という状況です。

読み進めようと思ってなにか読み始めても、途中で他の本が気になって、結局忘れてしまって、また読みなおす。でも、その本の内容は少しづつ進んでいる…それが繰り返されて、いつもいつも本がほしい状況です。

万年筆にはまり始めた頃、どんな万年筆でも欲しかった。すこしたったら、特徴ある万年筆が欲しくなった。
今の自分にとっての本は、そんな状況です。違うのは「はまった」のではなく、その内容に興味が有ること。専門書は一昔前と違い、趣味で読むものになった、ということなのでしょうか。

2010年11月27日土曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう その12

91~100位です。

・南三条:97位。たった一つの通りが突然ドラマチックになる場面を描いているように思います。一寸先は闇というべきか、犬も歩けば棒に当たるというか…。そんなドラマチックさがあるから、縮こまってはならないし、逆に慎重さもなければならないと思う曲です。

・相席:98位。この二人はその喫茶店で出会い、そして別れる。3度の喫茶店への訪れで、2人は出会い、いい感じになり、そして別れるのです。それに無頓着でいながらも実は上手に結びあわせているマスター。客をちゃんと見ていないように見えるけれども、本当は客をちゃんと見ていたのではないだろうかと思います。

・旅人のうた:99位。それぞれにはそれぞれのルーツがあり、すべての場所にはその場所のルールがある。だからこそよそ者は・・・というような歌詞です。どこへいってもよそ者とされるような旅人、ルールが見つけられない旅人、そんな人だからと無下にする必要はなく、愛を伝えなければならないと、そんなように解釈しています。

2010年11月26日金曜日

新しいパソコンに入れるソフトを考える ~インターネット関連~

新しいパソコンが来たら、出来る限りスムーズに移行したいものです。私のパソコンはただでさえ酷使されていて、その上いろいろな設定をしていますから、情報が錯綜している状況です。ひとまず、その前提で、何を入れようかとゆっくり考えて、ソフトを揃えるところから行ってみようと思いました。インターネットに絡んだものとして「ブラウザ」「メーラー」「オンラインストレージ」「メッセンジャー」について書いてみます(WiresharkやGmailCheker等は別です)。

まずWindowsから。
ブラウザ:色々試してみたいものが多いので、かなりの候補が上がっています。ひと通り入れてみて、最終的に2~3種類に絞ると思います。
・Chrome(Linuxも同じ)
・Lunascape
・The World Browser
・KIKI
・ScriptBrowserK
メーラー:こちらはメールの数だけ。Gmail関連をGmail専用ソフトに任せてしまうのも手かもしれませんが。
・Sylpheed(Linuxも同じ)
・Thunderbird(Linuxも同じ)
・nPOP
メッセンジャー
・Skype(Linuxも同じ)
・Windows Live Messenger
といったところでしょうか。

Linuxは多分Ubuntu10.10ですが
・FireFox
・NetSurf
・Surfraw
・midori
・SeaMonkey
がブラウザで、メーラーは
・IlohaMail
をいれようと考えています。また、Windows Live Messenger対応のメッセンジャーとして
・Emesene
を入れるつもりです。

オンラインストレージはどちらも共通で
・Dropbox
・ソラ箱(でもLinux対応予定のサポートが完成してから)
という予定です。

このカテゴリで、なにかオススメがあれば是非教えてください。

2010年11月25日木曜日

トップダウン・タスク分析法による指導

ダイテル親子のプログラミングの著書には、プログラミングの何らかのタスクに対してそれをプログラムのレベルまで落とす方法として「トップダウン・タスク分析法」が載っています。ほとんどアルゴリズムの与えられているテキストでこれが必要かどうかはわからないのですが、しかしながら、これを用いて指導することはなかなかに有用であると思った出来事がありました。

問題は冪乗法による行列の固有値の計算方法でした。このアルゴリズムと原理が記されている参考書を友人が読んでいたのですが、よくわからないと。まず原理を説明した後に「アルゴリズムを呼んでもよくつかめない」と言われたので、試しにトップダウン・タスク分析法を用いてみました。

単純に、目的・入力・出力を書き、それから各手順に分解し、分解した手順をさらに分かりやすく書き換えるという方法ですが、それを行ったことでひとまずある程度の方針がたったようで、一度組んでみるとその友人は部屋に帰っていったのでした。

アルゴリズムを教えるときに、勿論その手順を教えれば後は組めるというのがあるべき姿なのでしょうが、まだプログラミング経験の浅い人にはトップダウンタスク分析法を実際に用いて教えるのもひとつの手ではないかと感じたのでした。

2010年11月23日火曜日

プログラマさんに100の質問 (by くろひょう)

100の質問を読むのは好きですが、答えるのはどうだろうと思ってやってみました。面白いですね。


Q1:年齢は?
A1:20歳ですね。
Q2:プロですか?アマですか?
A2:アマチュアです。
Q3:パソコン歴は?
A3:本格的には9年。いじりだしたから数えれば14年。
Q4:おデブ?
A4:違います。
Q5:職場(または学校)と自宅の両方に開発環境がある?
A5:ありますが、自宅のほうが良い環境です。
Q6:情報関係で持っている資格があればお書きくださいな。
A6:まだ無いです。
Q7:喫煙者ですか?
A7:いいえ。
Q8:視力はいくつくらい?
A8:裸眼0.3ぐらい、メガネかけると1.0程度。
Q9:コーディング中は、どんな飲み物・食べ物を口にします?
A9:飲み物は紅茶かハーブティ、食べ物は飴・クッキー・チョコレート。
Q10:使える言語、どんなのあります?
A10:C/Fortran90&95/HSP/Java/C++/goあたりでしょうか。後ろ3つは使えると言えるほどではないですけど。
Q11:はじめてプログラムを組んだのはいつ頃、どんな言語で、どんなプログラムでした?
A11:HSP2.6時代、作ったのはマスターマインドでしたかね。
Q12:VBしか使えない人はプログラマを名乗っちゃいけない?
A12:プログラムを作ってるからいいのでは?
Q13:なんちゃってプログラマってどんなプログラマだと思いますか?
A13:プログラミングを楽しいと思っていないプログラマ。
Q14:プログラマをやっててよかったなあと思うときは?
A14:なにか数学の問題の解答を思いついたときにパソコンで実験できるとき。これが一番。
Q15:じゃあプログラマなんてやるんじゃなかったと思うときは?
A15:質問が連発するとき。特に数人連続は疲れます。
Q16:得意な言語はなんですか?
A16:間違いなくC一択ですね。
Q17:不得意だけど使わねばならない言語とかあります?
A17:Fortranは使えますけどいつまでも苦手です。
Q18:UML はどう思います?
A18:使わないので特に何も。
Q19:開発に使ってる、ラブなツールを教えてください。
A19:Editraとemacsぐらいです。PAD2PSは開発用ではないですが好きです。
Q20:コード管理やってます?ツールは何を使ってます?
A20:していません。
Q21:タッチタイプ(ブラインドタッチ)はまかせとけ!って感じ?
A21:普通に。
Q22:コメントはしっかりつけてます?
A22:付けないことが多いです。長いコードなら少し付けますが、少しです。
Q23:開発系のMLとか、入ってます?
A23:入っていません。
Q24:開発系の雑誌で購読してるモノがあればどうぞ。
A24:ありません。
Q25:言語・開発系にかぎって、月に書籍代はいくらくらいですか?
A25:5000~10000円。かなり使ってます。
Q26:一次変換とか得意?
A26:勿論できます。
Q27:数学が苦手なプログラマはダメですか?
A27:ダメとは思いませんが、少し厳しいとは思います。
Q28:プログラマなら英語の読み書きくらいはできますよね?
A28:コメントとか識別子で困らない程度には。
Q29:学生の頃、得意だった科目って何ですか?
A29:今学生ですが…情報・数学でしょうか。
Q30:これまでに開発したことのあるプラットフォームは、どんなのあります?
A30:バラエティに飛んでいて自分でもわかりません。
Q31:Windows しか知らないプログラマはどうですか?
A31:言語によっては移植性に乏しい物しか書けなくなり、結果としてWindows依存性を高めてしまうと思います。
Q32:GNUマンセーですか?
A32:とまでは言いませんが、GNUは必須です。
Q33:今一番組んでみたいプログラム、なんですか?
A33:マルチコアプロセッサにおいて各コアを100%使い切れるように自動的にタスクを配置するプログラム。できたら儲かりそうな。
Q34:AIを自作してみたいですか?どんなの?
A34:自作したくないです。
Q35:これだけは許せない!っていうコーディングスタイルがあればどうぞ。
A35:スタイルと呼べるレベルなら許せます。
Q36:コーディング上のこだわりをお書きくださいな。
A36:コメントは少なく、メモリは少なく、速度は速く、出来る限り美しく、すべての行に意図あるコーディングを。
Q37:自分の書いたコードは美しい?
A37:Do my best!の美しさはありますが、一般に美しいと言われるほどではないです。
Q38:「バグ」という言葉の替わりに使ってる言葉があればお書きくださいな。
A38:特に無いです。
Q39:営業さんと仲いいですか?
A39:営業等は関係ないので…。
Q40:プログラマ以外の職場の人間の頭が悪くて困った、というようなエピソードがあればどうぞ。
A40:特に無いです。
Q41:職場等で、クラッキングやウイルスなどの印象的な事件があれば教えてください。
A41:印象的なものはありますが長すぎるので内緒。
Q42:あなたが自分で「やっちゃった!!」エピソードがあればぜひ。
A42:calloc関数の無限ループ。
Q43:レビュー・プレゼンは得意?
A43:まぁまぁですかね…。
Q44:自分が世に送り出した作品で、「これは自信作!」ってのがあったら教えてください。
A44:ありません。
Q45:「この会社を辞めようと思ったソースコード」があったら教えて下さい。
A45:会社とプログラムはあまり関係がないので。
Q46:月の実作業時間の最高は何時間くらい?
A46:平均的には60時間ぐらいですかね。
Q47:最高で何時間眠らずにプログラムを組んだことがありますか?
A47:10時間ぐらいです。
Q48:職場や現場で仮眠をとる際、どんなところで寝ます?
A48:仮眠を取る状況になったことがないので。
Q49:あなたのまわりの電波なプログラマがいたら、その電波っぷり全開なエピソードをどうぞ。
A49:いません。
Q50:あなたの遭遇したマーフィーの法則を教えてください
A50:多いので割愛。
Q51:尊敬しているプログラマは誰?
A51:プログラマと呼んでいいかどうかわかりませんが、D.E.Knuth
Q52:今までの中で一番ハードだった仕事はどんな仕事ですか?
A52:特には。
Q53:今までの中で一番楽だった仕事(プログラム)はどんな仕事(プログラム)ですか?
A53:特には。
Q54:ナイショのバグ、こっそり教えてください。
A54:いやです。
Q55:「自分はすごいプログラマだなあ」と一瞬でも思ってしまうときって、どんなときですか?
A55:Do my best!の美しさが完全に満たされたと感じた時ですね。
Q56:ひとりごとをよく言いますか?どんなひとりごとを言いますか?
A56:プログラミング中は言っていますが覚えていません。
Q57:コンピュータ関係以外で趣味と呼べそうなもの、ありますか?
A57:色々。
Q58:どんなマンガをよく読みますか?
A58:料理漫画。
Q59:あなたにとっての萌え対象を教えてください。
A59:萌えという概念がわかりません。
Q60:デスクトップの壁紙はどんな壁紙ですか?
A60:万年筆の時が多いですね。
Q61:PCの周りにおいているフィギュアとかがあれば教えてください。
A61:ありません。
Q62:徹夜するより寝た方が効率が上がる派ですか?
A62:寝たほうがいいですね。
Q63:好きな音楽はどんな音楽ですか?
A63:中島みゆきか山口百恵。カーペンターズあたりもいいですね。静かな。
Q64:カラオケはお好き?主にどんなの歌います?
A64:上記歌手の音楽オンパレードです。
Q65:プログラマはむっつりスケベが多いと思いますか?
A65:いいえ。
Q66:鉄ですか?
A66:いいえ。
Q67:麻雀は好きですか?
A67:できますけどそこまで好きではないです。
Q68:はっきりいってプログラマはオタクが多いと思う?
A68:この場合のオタクがいわゆるフィギュアetcの意味のオタクならばNO.パソコンおたくという意味ならYes。
Q69:ていうかむしろ自分がオタクである?
A69:Q68に同じ。
Q70:ゲーマーですか?ゲーマーなら、どんなゲームをよくやりますか?
A70:やります。桃鉄・風来のシレンが基本。
Q71:ゲームをやる際、プログラマ的な考え(アルゴリズムを考える、処理落ちが気になるなど)をしていることがある?
A71:というか、ゲームをやる際にアルゴリズムを考えないことがない。
Q72:実はこっそりクラックしたことがあったりして?
A72:クラックはないですね。技術的にはできても自分の心情的にできません。
Q73:職場の人たち(彼氏・彼女・夫・妻以外で)と、月に何回くらい飲み・お食事などに行きます?
A73:数えきれないぐらい食べに行きますが、飲みに行くことはないです。
Q74:仕事中に2ちゃんねるを読むことがありますか?
A74:ないです。
Q75:ていうかあなたは2ちゃんねらーですか?
A75:勿論ないです。
Q76:「フラグが立つ」「スタックに積む」「ポインタがずれる」など、ついつい日常会話で使ってしまうプログラミング用語があれば教えてくださいな。
A76:と聞かれても思いつきませんが、使っているかもしれません。
Q77:映画やドラマでプログラミングするシーンなどがでてきたら、気になります?
A77:無論です。
Q78:ウィルス作れます?あるいは作ろうとしたことがあります?
A78:昔一度作ったので、多分想い出せば作れるはずです。
Q79:今まで買ったもので一番高いものはなに?
A79:万年筆。
Q80:在宅勤務について思うところがあればお書きください。
A80:特に。
Q81:普段開発してるときは、どんな服装ですか?
A81:色々ありますね。
Q82:普段開発してる環境、ディスプレイは何インチでフォントサイズはいくつくらい?
A82:17インチ、フォントサイズはバラバラです。
Q83:職場の男女比はどのくらい?
A83:9:1ぐらいね。
Q84:女性プログラマってどうですか?
A84:もっと増えてもいいのではと思います。
Q85:特定のパートナー(彼女・彼氏・夫・妻)がいますか?パートナーがいる人は、それは同業者ですか?
A85:いません。
Q86:プログラマはモテないと思いますか?
A86:スポーティブな人に比べれば持てないのでは。
Q87:付き合うなら同業者?それとも別の職種がいい?
A87:いろいろな人が入れば、職業はどうでもいいです。
Q88:ぶっちゃけた話、給料は月額大体いくらですか?(手取りで)
A88:内緒です。
Q89:それって、自分にとっては多い?少ない?
A89:多い方ですね。減らして欲しいとは思いませんが。
Q90:ぶっちゃけた話、普段は何%くらいの力で仕事してます?仕事以外の部分って何してるの?
A90:さて、どれぐらいだろう?把握できてません。
Q91:運動とか体にいいこと、なにしてます?
A91:歩くぐらいですが。まぁ、食事には気をつけていますが。
Q92:ここだけの話・・・痔は悪くなりませんか?
A92:痔ではないので。
Q93:クラッシュしてしまうバグが見つかっているのですが、どうしても原因が分かりません。デッドラインまではあと24時間。どうしましょー!?
A93:機能低下した安全版にする。それすらできなければ開き直るか、最高速度で1から打ち直す。
Q94:プログラマの耐用年数ってどのくらいだと思いますか?
A94:好きならば、頭がパソコンの使い方を理解できる限り何時までも。
Q95:いつまでプログラマをやるつもりですか?
A95:いつまででしょうね。
Q96:座右の銘はなんですか?
A96:人間性があって初めて。
Q97:よいプログラマの条件を3つあげてください。
A97:他人のプログラマを無碍に批判せず、プログラミングの楽しさを人に伝えられて、複数の言語を楽しもうと思える。
Q98:悪い・使えないプログラマの条件を3つあげてください。
A98:プログラミングをいやいややっていて、PCの知識が最低限度しかなく、プログラムの力の発展に興味のないプログラマ。
Q99:プログラマとしての自分を100点満点で評価してください。
A99:30点。まだまだ発展途上です。
Q100:あなたにとってプログラムとは何ですか?
A100:趣味であり、交流の輪を広げるものです。

2010年11月22日月曜日

新PCのLinux環境を考え直す

新PCのLinux環境、あれこれ考えています。せっかくのヘキサコア・8GBメモリなので、仮想マシンではなくその潤沢な環境を生かしたプログラミングをしたい、ということでどう考えてもデュアルブートが正解だと思うのですが、悩みどころです。

最近はUbuntuが人気で、その実力を8.04を使って体験していたものの、今は使っていません。単にVineが5.1になったからというだけの理由でしたが、Vineを仮想マシン化して使っています。ただ、いくつかの不満点もあり、新しいパソコンでは何とかしたいというのが正直なところです。

別にUbuntuが嫌いなわけでもなく、情報量やパッケージの豊富さを考えるとUbuntuの利用価値は十分だと考えていましたので、新PCに引っ越す際にどうしようかと考えていました。当然デュアルブートにするのですが、共有フォルダが云々といろいろ調べていくうちに、一つ、決定打に出会いました。

Wubi です。

パーティションをいじらずにWindowsのアプリケーションのようにUbuntuをインストールしてDual Bootにしてくれるというものですが、Windowsのディスクを丸ごとマウントしてくれます。色々考えなくとも使える、ということで今回はパーティションをいじらずにやってみようかと思いました。ディスクの断片化問題があるようですが、ひとまずはディスクデフラグに頼ろうかと。

そうすると、Dropboxさえ無事に動いてくれれば、後はUbuntu内にストレージは必要なくなります。両側の設定を十分にして、WindowsでもUbuntuでも遜色ない動作をしてくれるようなカスタマイズをするつもりですが、それは現在のVineの設定を少し追加したり、逆に、Windowsのソフトをとったり、ということです。

であれば、後は情報収集だけです。Wubiのおかげで懸念していた問題が解決し、実現に一歩近づきました。結論、UbuntuとWin7のDual bootとし、Chrome OSは後ほどとします。
ひとまずソフトウェア群を揃えなければなりません。同一用途のソフトウェアを複数利用する趣味がある私、相当考えて選ばなければなりませんが、それでもいろいろな手段で強力な設定のパソコンにしたい。明日、11/23の勤労感謝の日は、ソフトウェア開発者たちに感謝を評しつつ、数年ぶりにフリーソフト狩りをします。すさまじい数のソフトウェア群を検討し、何をインストールするか考え、順序立てておかねばなりません。新しいパソコンは、私が本格的に使うものとしては6代目、その間に熟成されてきた設定を「引っ越す」のはかなり時間がかかります。目標は3~4日ですが、どんなに遅くとも1週間はかからないように出来ればと思います。

問題はUbuntuのバージョン。e-mobileのD31HWは接続状況が良くないのですが、やはり使いたいのでどうしようかというところです。D31HWで使うならばUbuntu10.10でなければすんなりとは接続できないようなのですが、これ、サポートが少し短いんですね。10.10から11.04かな?に無事アップロードできるならいいのですが・・・。サポートが切れるころには12.04が出ているでしょうし、きっとLTSでしょうから、こちらを使うほうが懸命かもしれません。10.10→12.04が正解かな?

2010年11月21日日曜日

興味ある後輩

親しくしている後輩は皆労たし、と私がいったところで別に何の反応が得られるわけでもなく、多くの友人は「またか」という程度ですが。

後輩を可愛いと思うのは今に始まったことではありません。学童保育に通っていた頃、既にその片鱗はあったように思い返しますので、三つ児の魂百までというのはよく言ったものだと思います。私の本質的な部分…見栄っ張りだとかおしゃべりだとか後輩好き(というよりは自分よりも立場的にあるいは年齢的に下の人好き)だとか…はちっとも変わっていません。この3点考えると、後輩の前では見栄をを張って話し放題だから後輩が好きなのだ、と言われるかもしれませんが、いえいえ、私は道端でまだ小学生になっていない子供を見ても、いとけなく可愛いなと思いますから、見栄とはあまり関係ないようです。

そんな後輩に話をしているときに、非常に興味深げに聞いてくれることがあります。題材にもよりますし、その後輩の興味の方向にもよりますが、興味深く話を聞いてもらえるというのは実にありがたい事です。例えば桃鉄の話をしていたら、興味を持って私の部屋にプレイしに来た後、はまってしまった後輩がいます。彼と食べに行くと、とりあえず桃鉄の話です。各々の考えた戦略を話し合うのですが、私が戦略を話しているとき、その後輩の反応は素晴らしいです。「そのターンで〇〇のようにするのはなぜですか?」「こうすることで〇〇となるのを防いで自分だけ得できるわけだ」「でも逆に〇〇をせず△△をするという手もあるのでは?」「あ、確かに!」といった具合です。

興味が有るか無いかは相手の反応の中で、特に相手が質問を多くするかどうか、自分の意見を発するかどうかで見えてきます。それも通り一遍ではない意見を発するかどうかです。

先日、ある後輩にCプログラミングの指導の第1回を行いました。「まだ現状ではよくわからなくてもいいけれど」といった上で、#includeやint main(void)、returnの意味を説明しました。後輩は、その各々について逐一質問した後に、「まだ実感を伴ってわかったようには思えないのですが、大丈夫でしょうか?」と聞いてきました。ひとまず「現状では完全な理解、体に染み込む理解は無理だと思うから、また後で再度同じことを説明する。それまではreturnは返却値を示して、mainの場合はプログラムの終了の状態をOSに出すということをなんとなく頭の片隅においておけばいいよ」と答えました。しかしながら、これは実に良い質問です。この質問一つでその後輩が興味を持っているということを感じましたし、その後輩は間違い無くプログラミングの才能があると感じました。

私は、才能=素質+興味 だと考えています。たとえどんなに素質があったところで、何がなんでもやりたくないと思っている人は、その分野に長じることはありません。わかり易い例で言えば、どんなに鋭敏な味覚を持っていたとしても、食べ物は栄養補給源でありさえすればいいという人は「食通」にはならないし、なれないでしょう。逆に、興味があれば、たとえその分野の素質で劣る点があったとしても、興味が有る故積極的に行動しますから、きっとその分野に長じることでしょう。体格的に劣っていてもバスケットボールが好きだからと必死に練習した人がトッププレイヤーになること、十分に考えられます。

天才と言われる人も含めて、多くの人が努力の大切さを述べています。その人々は才能はほんの少ししか寄与していない、といいます。この意味での才能は、私の言うところの「素質」であり、何より「その分野について努力できる才能」、つまり興味がなければ何の意味もなしません。努力は皆大切だといいますが、努力のために必要不可欠な才能、興味というものを有する後輩には、決してその興味を失ってもらいたくないと思いますし、また同時に、少しでもその興味を深められればと思うのです。

2010年11月20日土曜日

年賀状を出すマナー

年賀状の枚数は揃い、後は書いて出すだけ、という段取りで、ちょうど今頃は喪中欠礼のはがきがやってくる頃です。私は喪中を待ってから書いているほどの時間がなく、既に書き始めているという無礼者ですが、喪中欠礼が届いたら、年賀状を書く人リストから、寒中見舞いを書く人リストへとその人の書いているリストを移します。喪中欠礼で年賀状を出すのは失礼とは言わないという意見もありますが、私はそれには賛成しかねます。何故と問われて答えられるほどのわけはありませんが…。

喪中葉書の来る頃になると、寒中見舞いも含めて年賀状のマナーを確認することにしています。以下では「年賀状・暑中見舞いドットコム」および「暮らしのAll Aboutアーカイブス 最低限のエチケット 年賀状マナーの基本」を参考にし、私なりの意見をFAQ形式で答えていきます。

>年賀状は虚礼では?
年賀状は普段会っていなかったりする人にあいさつをするという意味で、虚礼とはまた違うと思います。また会うからと出さないよりも、出したほうが、もらった相手が嬉しいと思います。相手が嬉しいと感じるだろうことが年賀状を出す最大の意味だと思いますし、逆に相手に嬉しいと思ってもらったって・・・という人は年賀状を出さなくてもいいと思います。私は年賀状を出すことには意味があると思いますし、その意味が虚礼であるということを否定しています。

>年賀状はいつ出すか?
年賀状は1/7、松の内が限度といいます。三が日が限度ではという人も多いです。私は松の内までは待つタイプですが、すべての人がそうだとは限りませんから、やはり三が日に年賀状が届くようにするのがベターです。となれば、確実なのは郵便局が広報している「いつまでにお出しください」という日までに出すこと。私は受付開始日に出す習慣ですが、そこまで早くはなくても、郵便局の告知している日には出したほうが良いと思います。年内であればたいていは三が日につきますが、絶対ではありません。歴史的には松の内に届けばいいのですが、要は受け取る相手側の問題なので、出すと決めたならできるだけ早く届くように出すほうが無難です。

>「年賀」という朱書き
年賀状を出すときに年賀という朱書きをしないと郵便局では年賀状以外として扱われることがあるようです。腹立たしいのは一部の私製はがきで、年賀状向きとわざわざ表面に朱書きを印刷しているのですが、くじ付き年賀切手を貼ると覆われてしまいます。私製はがきで年賀状を出すとき、くじ付き年賀切手を使われる方は、年賀の文字が隠れないかどうか確認したほうが良いと思います。メーカーさんも、できるだけくじ付き年賀切手に対応して朱書きを印刷して欲しいです(勿論、対応しているメーカーも多くありますが)。

>出していない人から届いたら
私は網羅的にだすので出してない人から来ることはそう多くないのですが、それでも、だしていない人から来たら、松の内に届きそうなら年賀状を、松の内でなければ寒中見舞いを出すべきでしょう(私は今年寒中見舞いにしたはずで、来年も帰省の日程などから考えて寒中見舞いになるでしょう。)。遅れた理由を書く必要はないと思いますが、感謝の気持ちは忘れずに書きます。
最低なのは(喪中欠礼等に関係なく)出さないこと。喪中欠礼の場合は寒中見舞いとなりますが、ともあれ手紙を出してもらったらそれには返すべきであると思います。出していない相手から年賀状が来たのに自分は出さない、というのは、普段道で出会って挨拶をしても返さないのと同じぐらい失礼なことです。いうまでもありませんが、私は出したかどうかのチェックリストでチェックをして、出していなければ必ず出すようにしています。

>年賀状の日付はどうしよう
色々な意見があり、先にあげた二つのページでもわかれていますが、私は次のように分けています。
1.自分から出した場合は「元旦」、仮に1月2日以降に届くと思われても「元旦」ですし、11月に書いているからと言って「11月何日」とは書きません。
2.相手からの返礼の場合には手紙を書いている日を書きます。「賀状ありがとう」と書いているのに、それが元旦に書かれたというのは不自然だからです。

>手書きかPCか
ちょっと古い議論だと思いますが、先のページに書いていたので取り上げます。
朝日新聞等が行っていたアンケートでは、手書きの方がうれしいという意見が多いようです。(ついでに言うと、出したくないけどもらうのはうれしいという意見が多いのも気になりますが。)全部手書きというのは時間も体力もいるので(私自身、文章は100通手書きでも絵は描かれたものを買っています)、そこまで気合いを入れる必要はないと思いますが、それでも一筆添え書きがあるとないとでは見る側も大違いですね。一筆の添え書きがある素朴な年賀状の方が、華やかで凝ったデザインの添え書きなしの年賀状よりもよほど読んでいて楽しいです。

>メールか葉書か
現代年賀状事情では最大の関心ごとかと思うので。
私は、メールでのあいさつは失礼だとは感じませんが、それでも、実際に挨拶に行く>年賀状>メールという図式は成立しています。年賀状自身が本来は略式なので、メールはさらなる略式、目上の人には絶対にやめた方がいいと思います。ただ、メールを出してはいけないということではなく、メールの挨拶だけで済ませるのは不十分なので挨拶に出向くなり年賀状を出すなりしたほうがよいということです。
メールでの挨拶は私の周りでも多くつかわれていて、一般的に受け入れられてきますが、それでも年賀状>メールの図式が崩れていることはないと思います。その意味で、年賀状を出したのにメールというのは(返さないよりはよほどましですが)、礼を欠くのではないかと思います。目下の人にそうするならばそんなものかと思うかもしれませんが、少なくとも年賀状というレベルの挨拶をもらったのであれば同じレベルの返事を返すべきだと思います。友人に、「こんにちは」と言ったのに対して生返事が返ってきたらどうでしょうか。なんとなく「偉そう」という感じを受けませんか?年賀状とメールも同じ関係だと思います。自分のところに年賀状がきたなら、メールだけで返事するのはあまりいいこととは思えませんから、メールだけで挨拶をした相手から年賀状が来ていたらすぐに年賀状を書くようにしています。

と、つらつら述べてきましたが、基本的なマナーというのを振り返ってみて、今年の年賀状の状況がかなしくなりました。賀状での返事の数だけで言うと半分ぐらいしかなかったような?人情もへったくれもない世の中なのかもしれませんが、年賀状という文化は日本独特の文化で、人を大切にする文化ですから、虚礼と言ったり文明の利器に頼ったりするばかりではなく、せめて自分が世話になっている人や、今年年賀状で挨拶をくれた人には年賀状を書こうではありませんか。

2010年11月19日金曜日

その廃盤、逃しがたし~デュオ・センテ・チェック~

パーカーのデュオフォールドセンテニアルチェックも出るといえば私がかねてよりずっと好きなモデルであり、まだ私が万年筆の世界にはいったばかりの頃に最も心惹かれたペンでもあります。今に至るまでデュオフォールドは私の中で常に上位に位置しており、とりわけ、2年前にシトリンが出た頃にはその美しさに、しばしショーケースの前で立ち止まっていたほどです(その立ち止まり時間は歴代2位!1位はエドソン125ansです。)

「細字万年筆にこだわる」のブログによれば、このデュオフォールドのチェックモデルが廃盤になるとのこと。いつかはいつかはと思っていましたが、もうあまり待てなくなってしまいました。早い段階で、私はデュオ・センテ・シトリンを手に入れなければなりません。出来ればXFを・・・。

デュオフォールド・チェックの廃盤は驚くべきことでした。まず廃盤になることはないだろうと思っていたペンだったからです。無論、どんなペンにも廃盤はあるのでしょうが、少しどころか随分と寂しい気がします。

デュオ・チェック。私の万年筆旅では必ずと言っていいほど見かけた、その大好きなペンが、初心者も含め、多くの人が美しいという、心ひかれるそのペンが廃盤になることはショックですし、絶対に逃したくないと思いました。

2010年11月18日木曜日

ハリーポッターの名言7:「ただし、急ぐが良い。宴会じゃ。」

秘密の部屋より引用、ダンブルドアです。

私は飲み会あるいはそれに類するものは苦手で、あまり顔を出すことはありません。しかし、そこに酒がなければ、単なる食事会であれば、顔を出して楽しむことがあります。特に、気のおけない友人との宴会は楽しく、なければ辛いと思うこともあります。

宴会自体は楽しいものであり、私はその点について異論はありません。そして、ダンブルドアもそのことを指摘していると。その一方で、宴会を嫌だと思う人もいて、そんな人を無理に誘うのはナンセンスであるとも感じます。宴会は皆揃わなければ、という考えの人もいて、自分自身も昔はそう思っていますが、最近はそうは感じません。嫌な人だっているのだから、参加は任意であるべきだと思います。勿論、特別な、例えば送別会などは別として。

宴会ほどすっきりできるものはないということでしょうか。秘密の部屋という一つの難関を突破し、疲れたハリーが宴会に参加することで、それが和らぐことをダンブルドアは意図していたのかもしれません。

一度、ダンブルドアの「一言」を宴会のはじめに言ってみたいと考えます。でも、私の生真面目な正確から、まだそれは実行できずにいます。今度、気心のしれた友人との宴会を始めるときに「そーれ、わっしょい、こらしょい、どっこらしょい」ではじめたら、友人はどれほど目を丸くすることでしょうか。

2010年11月17日水曜日

初心者向けプログラミング指導に求められること

プログラミングネタが続いていますが、これはプログラミングの時間が長いからです。

プログラミングの指導をするときに、大抵はプログラミングは初めて、という人が対象になります。私が1から説明をするようならば、大抵プログラミングに対して興味を持っている人です。この1から説明する場合に、一体何を教えればよいかということは、毎回考えるところです。

私は、一貫して次のスタイルで教えています。
・プログラミングは理論的なものだが、書かねば上達しない点は他の語学や体育と同じである。したがって、十分な量を読み、書くことを取り入れる。
・アルゴリズムがわからなければプログラムは組めない。アルゴリズムについての基礎知識をごまかすことなく説明し、自ら考えてアルゴリズムを立てられるようにする。
・プログラムの説明には絶対に妥協を入れず、「おまじない」という教え方は避ける。丸暗記で書くプログラムは無駄である。

いずれの考え方も、広範に受け入れられる考え方だと思います。第1の言語を教えるときにはその文法を教えることよりも、パラダイムやアルゴリズム、あるいはデータ構造といった「その言語に限らず多数の言語で把握しておくべき概念」に重点を置きます。通読的に学ぶ場合、アルゴリズム等はプログラミングが出来るようになってから学んだほうが理解が進みます。しかし、通読的に学ぶというのは、プログラミングを通読的に学んだ後にやらなければならないですし、それまではつまらない文法練習というのでは楽しみも感じられません。そこで、ある程度のアルゴリズムについて、通読的ではないにせよ、それなりの段階まで(プログラマとしての素養と言えるだろうレベルまで)、問題演習等を通じて教えることにしています。

初心者向けプログラミング指導は理論のみであったり、文法の手早い説明であったりする必要はないと思います。むしろ、多くの実践を取り入れて、時間はかかってもプログラミングを実践で学び、その楽しさを知ってもらうことが大切だと考えます。

「かじりに」来る人達、必要に応じて、必要な部分だけ、手早く済ませられればいいと考えて質問に来る人達にもその思考を応用出来ればと思います。けれどもまだ力不足で、何とか教えられればと悔しい思いをしています。

2010年11月16日火曜日

HowとWhatの手続き指向/オブジェクト指向

プログラミングにおいては、コーディングテクニックよりもアルゴリズムのほうがよほど好きで、アルゴリズムを楽しんでいますが、なんだかんだでコーディングも教えることが多く、その説明を考えていたときに思いついた話です。

手続き指向とオブジェクト指向の説明は現代のプログラミングにおいて、特にCとJavaを扱う人間としては避けて通れないものでしょう。私もCを教えつつ、適宜オブジェクト指向の話をするのですが、いつも考えるのは「どう教えるか」です。例えで説明するときが多いのですが、例えはあくまでも例えであって、本来的な説明の噛み砕き方も考えねばなりません。

色々と考えていて思いついたのが、データ構造+アルゴリズム=プログラムということです。少し意味は異なりますが、プログラムは データ(オブジェクト) を 処理 するものということです。英語で言えば
Programs treat objects.
ということですね。この時、プログラムとは何かという問に対して、二つの質問が考えられます。
What objects does the program treat?
How does the program treat the objects?
この、前者を定まったものとし、後者を主として記すのが「手続き指向」、前者後者をまとめて、何をどう扱うかまとめて記すのが「オブジェクト指向」であるという説明です。

それがなぜ有効か、どのように有効かという話は後に回すとしても、オブジェクト指向と手続き指向が相反するものではないということを説明するには、まずこの程度の(厳密性は欠きますが)噛み砕いた説明から入っていくのが妥当ではないかと思います。

2010年11月14日日曜日

パソコン構成を考慮

今使っているノートパソコンは、2年半ほど前に中古で購入したWindows Vista。メモリは2GBでToshibaのDynabookのその前の年の夏モデルで(できてから3年)、載っているCPUは1.6GHzのCeleronM。ノートにしないと不便かな?と思っていたのですが、ノートにする意味を感じなくなり、結局、ただの能力の低いパソコンでした。当時このPCを購入したときはマルチコアプログラミングについて無知であり、まだまだ生かせないと判断したからでしたが、現在はマルチコアプログラミングを学ぶための資料も整ってきているので、キーボードの調子も大変悪いということで(左カーソルキーは反応せず、右カーソルキーも効きが悪く、zキーは内部パンタグラフが破損しています)、来月のボーナスを待って購入することとしました。

ひとまず、いくつかの店でオーダーの見積もりを出しました。最近の猫も杓子も補助記憶装置大容量化を叫ぶ風潮は好きではないので、HDは小さくていいから安いものを…と探した結果、かなり良いものが、それなりの価格で作れそうだということがわかりました。
CPU: PhenomII X6 1090T BE(3.2GHz)
メモリ: 8GB
HDD: 500GB
office:Kingsoft Office
セキュリティ:G Data
キーボード:Cherry社黒軸
OS:Windows7 Home(これに後はVine LinuxとChrome OSのトリプルブート予定)
パーティション:自分で分けるか分けてもらうか…
と、これでしめて10万強。なかなかの性能です。勿論スクリーンも付いています。

問題は引越し。データを移すのが特に大変です。最も面倒なのは仮想マシン化して利用している現在のVine Linux5.1をデュアルブートに移すことでしょうか。

とにかくいろいろな資料を当たり
1.トリプルブート及びHDのOS共有部の作成
2.Linuxの強固な環境作成(Live messenger互換IP Messengerを始めとした導入)
3.e-mobileのLinuxにおける設定
4.Windows7のプログラミング環境構築
5.マルチコアプログラミングの環境設定
あたりのハードルをクリアしないといけません。

さらに、引越しのデータ準備や、必要なプログラムの整理等、やること山積です。

このあたりの準備で、Blogにこの関連の記事が増えるかもしれません。どうかご容赦ください。良いパソコンが出来るように努力します。

2010年11月12日金曜日

programming day

昼から授業がない日があったので、課題等を含めてプログラミング関連の勉強、もとい、趣味に近い内容を学ぶこととしました。ひとまず、Javaの勉強で、課題を組みますが、前もって立てた計算式のミスか、はたまたプログラムのミスか、正しい値が出ません。ちょっと一呼吸。

何とかかんとか誤りを見つけ、そのあたりを戻して、Javaの課題は終了。無事に動くようになりました。

残りの時間は、最近FortranとJavaばかりなので久しぶりのC。半旬の計算やら二十四節気の計算やら、簡単な練習問題をドキュメントに追加しようと考え、ひとまず解くことにしました。問題の設定をいつも悩みますが、適度な問題が出来れば、ちゃんと解説を書いていっちょあがり、というわけです。

#include
int main(void){
  ...
}
などと書いているうちに、少しづつCの感覚を取り戻してきます。やっぱりCが一番打ちやすいのは、それだけ長く親しんでいるからですが、新しい言語の誘惑も尽きることはありません。

少しづつ増えていくソースは、整理しないとあっという間に大量に。どう整理しようか、書き散らかしたソースのうち、見ないものは捨てないとと思うことも多くあります。

プログラミングで一日を過ごすのも、目が悪くならない程度なら楽しいものですね。

2010年11月10日水曜日

Fortranの本を書く

色々な機会でプログラミングをして、CほどではないですがFortranを使う機会が増えています。自分で書きためたドキュメントもあるので、それらを利用して、また、TeXのさらなる技術向上も目指してFortran90/95の入門書をつくって公開しようと考えました。

今回のスタイルは
1.プログラミング経験のない人がFortranを学ぶが、基本的なLinuxやWindowsの操作は知っているものとする。
2.例題や演習を多く取り入れて、十分多くのソースを書いて身につけることを意図する。
3.アルゴリズムを初め色々な例を取り上げて「組める」ようにプログラムを記す。
4.例題には十分に解答例・解説を記して一つの手本となるように記す(手習い志向)。演習にはおおざっぱな解答あるいは自力で組める程度の解説をつけておく。
5.数学に関する補足などを付録に書いて、コンピュータ以外の知識は高校卒業程度にあれば読めるように工夫する。
といったあたりです。

Fortran90/95の日本語で書かれた入門書は数冊しかなく、演習が十分と思えるものは翻訳版のものしかありません。その翻訳版も、訳はいいのですが、問題はアメリカのものなので日本にそぐわない感がして好きではありません。日本語の、演習が十分ある解説書として自分の本を書きたいと思います。その意味で、類書と解説は代わり映えしないのかもしれませんが、演習の面で類書と違うものをかければ、と思います。後は、無料公開で、少しでも多くの人に活用してもらえれば、自分のノート+アルファではありますが、うれしい限りです。

2010年11月9日火曜日

Googleグループの終了

Googleグループのサービスが終了することとなりました。メーリングリストにプラスアルファしたような機能のあるサービスでしたが、使いにくいという声もあり、Googleのサービスとしては失敗だったのかもしれません。寧ろ、もっとメーリングリストに特化していた方が正解だったのでしょう。

私はGoogleグループの利用者で、グループオーナーでしたが、メンバーからは使いにくいと言う声が少なからずあり、今年の9月に使用をやめました。残しておいたのですが、それも消えるということでメールが来たので知った次第です。オーナー自身も(あまり考えずの使用だったこともあり)難しいと思いましたので、メンバー側からはもっと難しかったのかもしれません。

万年筆に関するデータ集サイトの作成について、Googleグループの使用も検討案でしたが、終了ということで検討案が減りました。Googleサイトなど、考えることはまだまだありそうですが、時間に応じて検討したいと思っています。

訂正:ファイルやページの使用をなくすとのことです。いずれにせよ、多機能さが良くなかったと思っているので、良い方向への修正だと思います。

2010年11月8日月曜日

言葉を大切にするということ

kammyさんのコメントにありましたが、「言葉を大切にする」というのはどういう事なのか、自分なりにも考えてみました。

言葉を大切にするというのは
1.フレーズの意味をきちんと捉える
2.言葉の意味や語源を理解して適材適所に使う
3.言葉を無尽蔵に散らかさず吟味する
あたりのことを言うのでしょうか。

言葉選びは悩むこともありますが、無意識なものもあります。私の日常的なシーンとして、後輩をお茶に誘う機会がありますが、その時のフレーズは以下のとおりです。
A:〇〇君、よかったら今日、お茶を飲みに来ないかい?
B:〇〇君、今日、お茶でも一緒に飲まないかい?
C:〇〇君、今日都合がつけば、ちょっと一杯お茶でもどうだい?
冗談とかもろもろ考えるともっと多くのフレーズがありますが、ひとまずこの3つとしてみます。どれもおんなじようなことを言っているのですが、ニュアンスは全然違いますよね。
Aはお茶を飲みに来ることを最も推奨しているという感じを受けます。お茶を飲むということをして欲しい、という「お茶」に焦点を当てた勧誘です。
Bはお茶でも一緒に、ということから、一緒にいる、ということに重点を置いています。「お茶でも」いいから、とりあえず一緒に何かやらないか?という、勧誘です。
Cはほんとうに軽い、談話への誘いです。ちょっと一杯お茶でも、という言葉から「ほんの少し、軽く寄っていかないか」という感じを受けます。
これらのフレーズを選ぶとき、メールに何気なく書いていますが、自分の気持がよく出ていることに気づきます。無意識のうちにフレーズを選んでいます。

言葉遊びなども含めて、私はいろいろな言葉を選びます。時には古語を用いることもあります。解説文はかなり畏まります(古い本を多く読んでいるため、その影響もあります)。

可愛いと単に言うことが多いですが、あえて「ろうたし(苦労したい、苦労してもいいというほど可愛い。労したしから)」や「いとけなし(幼くあどけなくて可愛い)」を使うことがあります。詳しくと書かず詳らかにすると書くときがあります。なので、と言わず、しからば、というときがあります。

言葉選びは細かいニュアンスを知り、語源を知るほどに多くなり、それが増えるに従って語彙が増えていくものだと思います。語彙力推定テストを受けると、平均的に5万語超(大学生水準の少し上)をマークしますが、それは色々な本を読んで、気に止めたフレーズを使いたがる私の性格ゆえかもしれません。

日本語に関する書籍も面白く、特に「日本語を使いこなす言葉の実用辞典(小学館)」楽しく読めます。日本語をきちんと使いこなすことは単純ではなく、敬語を始め、色々な間違いを犯します。
でも、その間違いを大切に見て、なぜ間違いなのかを考えることで、言葉を大切にできるのだと思います。そして、言葉の本来の役目である、コミュニケーションも、言葉を大切にすることでより潤滑になります。

言葉を大切にすること。それは言葉を無碍に扱わないことだと思います。良く吟味して言葉を選ぶことが大切なのだと思います。

色々な本を読み、色々な詩を聞いて、造語などで遊んだりしているうちに、言葉を大切にする態度が備わってくるというのはよく言われる意見であり、私自身、言葉に触れる機会を多く持っています。そして、誤用については、自分の出来うる範囲で、なぜ誤用と思うのかを説明できるようにしています。それが、私の「言葉を大切にする態度」なのだと思います。

2010年11月7日日曜日

紅茶を飲もう その3

紅茶を飲むのは私にとって日常的なことですが、しかしながら、その中には色々なことがあって紅茶を飲むと一口にいってもそれだけでエッセーを書けそうな気がします。そこで、それを少し書いてみよう、と思います。

--私の好きなお茶はなんですか--
食事に何度も行くと、相手の好みが分かってきます。しかし、紅茶は、意識して飲まないからでしょうか、それぞれの好みが見つかりません。そして、かくいう私も好きな紅茶が一貫していません(勿論、一貫して好きなものはありますが)。

私の好きな紅茶はなんなのでしょうか。
最近、ダージリンファーストフラッシュが嫌いになりました。あれをなぜか、中途半端に渋いと思う。逆に、もっと強いはずの紅茶のほうが飲みやすい。それは私がミルクティーばかり飲むから?
数年前まで、Twiningのプリンス・オブ・ウェールズが好きでしたが、最近は苦い感じがして嫌いです。
ニルギリは昔からずっと好きです。シッキムが最近好みになりました。
出雲紅茶のような、少しパンチの弱い紅茶も好きですが、アフリカの紅茶やウバといったミルクで飲むべき紅茶も好きです。
アッサムは変わらず好きです。

友人や後輩に一家言あるとして聞かれます。「紅茶は何がおこのみですか」と。しかし、私には定まった好みがなく、いつも返事に窮します。とりあえずはニルギリと答えているのですが、しかしながら、千変万化する自分の好みの紅茶を捉えるのは難しく、それ故、また紅茶を買ってしまう自分がいます。

2010年11月6日土曜日

ペン先の調整の意義

いつものごとくpen and messageのページを見て、金曜日なのでペン語りを読む。昨日のことで、本当にいつものことですが、今回の内容は随分と興味深いものでした。普段は万年筆あるいはそれに関する「特論」なのですが、今回は「概論」といった感じだったからです。

ペン先調整は使い込んでいく上での下地である、というのは調整を行う上で本来忘れてはいけない根本的な考えであると思いますが、実際に考えられていることは少ないように思います。まず調整ありき、何でも調整、そんな感が蔓延していて、自分自身も結構調整に頼っているからです。
とはいえ、調整なしでペンが使えないということはなく、自分のペンの調整などここ数ヶ月行っていませんが…。

調整は下地であり、そのペンに秘められた力を最大限出すための方法である、というその意見は、もしかすると現在の調整中心の万年筆マニアに一石を投じる意見ではないかと感じる次第です。

調整はすればいいものではないと思います。私はまだまだ未熟ですが、まず調整ありきではない、というのを、吉宗氏当人から何度か伺っているにもかかわらず、それでもまだ調整に走ってしまいます。調整はあくまでもオプションであると布教論にも書きましたが、まずそれを自分で実践しなければならないと強く感じました。

2010年11月5日金曜日

数値計算の楽しみ

たまには少し、小難しい話を書いてみても面白いかな、と。

友人が数値計算の質問をしてくるようになりました。当人曰く、できそうだから、ということですが、私の数値計算の経験などたかが知れたもの、そこまで良い説明ができるかどうかというと当然否です。ただ、個人的に、数値計算は楽しいと思っている分野であり、やはり友人に解説するからにはその楽しみを知ってもらいたいと思います。ですが、質問をしてくる友人は概ね数学もプログラミングも嫌いなので、苦しみにしかなっていない、というのが現状です。義務感でやっているから、余計のこと嫌なのでしょう。自分が後輩に指導するときは、プログラミングの総合講座ということで、まだ経験の浅いうちから数学的なものから遊びまで様々に取り入れて指導するので、少なくともプログラミングなんて見るのも嫌だ、ということはないのですが・・・。

数値計算の楽しみは多種多様で、私に言わせれば既知の定理をいかに組み合わせてコンピュータの範囲に落としこみ、それをいかに速く、いかに正確にするか、というのが最大の楽しみです。けれども、この楽しみ方は数学やコンピュータが好きでないとできないような気がします。それでは何があるのか。私は、そのひとつの答えとして、温故知新を目のあたりにすることだ、と思っています。

古代ギリシャにおいて、平方根の計算は極限値が平方根に収束する数列を用いた(漸化式による)計算であったことが知られています。それは、次のような方針によるものです。


それが実は、Newton法に当たっていた、というのですから驚きです。Newton法は高校生の数学Bの後半(選択部分)の他、多くの数値計算の書籍で扱われているごく基本的な方程式の解法であり、接線近似を用いた解法です。検索していただければでるので、Newton法とギリシャの平方根の計算がどう結びつくかを、以下に記しておきます。



そして、このNewton法を差分化した割線法はBrentのアルゴリズムへとつながっていくのですが、これ以上はやめておきます。

数値計算法はコンピュータを使うことから、一見するとコンピュータの発達してきた若い学問であるように見られます。しかし、このNewton法からBrentのアルゴリズムへと発展していく流れの中で見たように、古代ギリシャの知恵を発見することができるのです。同じように、江戸時代の和算家建部賢弘による円周率の計算にもローンバーグ積分法を見ることができます。温故知新の言葉通り、古い、歴史的な考えを辿り、それを一般化することで数値計算を学ぶことができます。この温故知新こそ、数値計算の楽しみの一つの大きなファクターなのではないか、と思います。


それを知ってもらえるような説明をしてみたい、と、そう考えながら、まだまだ実力が足りず知ってもらえない自分の未熟さを情けなく思います。

2010年11月3日水曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう その11

81~90位です。私は「心守歌」のアルバム好き??

あのバスに:86位。「あのバス」は何に向かうバスなのでしょうか。行き先も見ずに乗るほどに急ぐ状況で、いったい何を追いかけていたのでしょうか。そんな疑問を抱きながら聴く曲です。「何もかも風景が新しくなるはず」、その一言で、ふと思うのは、この人は今の自分の環境から抜けだしてしまうために、どこでもいいから、ひとまず急いで抜けだそうとバスに乗ったのではないか、ということです。そう、「あのバス」は自分の新たな環境へ向かうバスなのです。数えきれない曲がり角があって、どこへ行くかわからない、自分の新しい環境…それをバスが描いているように思います。

月迎え:89位。「月を迎えに出かけませんか 身体抜けておいでなさい」、魂や心といったレベルのものの話をしているのでしょうか。月を迎える、夜の世界。ある種の幻想であるその夜を美しく描いた曲であると思います。月の柔らかさ、月の寂しいながらの静けさを描いていると。それでも、月を迎えに行くとはどういう事なのかわかりません。ただ美しい月を見るだけなら「見る」でいいではないですか。美しい月、いったい何を?

夜行:90位。「夜さまよう奴」…である私。自分からのゾンデではなく、結果として夜さまようことになっている私。それはもしかしたら、心の奥底でまともな帰り先を見つけられていないからかもしれないと思いました。どこであっても、何か心の奥にあるしっくり来ない感じが、もしかしたら「夜行」せざるを得ない自分の帰り先の無さを表しているのかもしれないと思いました。

2010年11月2日火曜日

2011年の年賀状

11月は年賀状シーズンです、と昨日も書きました。手書きで120通を書く人間にとってこの月は年賀状の肝心要なのです。

年賀状は暑中見舞いに比べて日程に余裕があります。暑中見舞いは私製はがきと便箋で送るのに対し、年賀状は官製はがき(寄付金付き)半分に私製はがき半分ですから、書くスペースから考えても手間はずいぶん変わります。暑中見舞いは時期を見て出さねばならないことと、私製はがきや便箋の発売が6月中旬以降であることから、ほぼ1カ月で完全に書きあげる必要があるのに対し、年賀状は45日で猶予が付いているのですから随分と楽です。と言っても、決して手を抜いているわけではなく、一通一通心をこめて書きますから、一つとして同じ文面はありません。

私が年賀状を手書きにするのは、いくつかの理由があります。
1.パソコンやプリンタの環境が悪いこと
2.自分自身が手書きの年賀状をもらった時に大変うれしいということ
3.年賀状の紙を選び言葉を選ぶのは楽しいということ(それゆえtipocaは使いません)
4.相手の顔を思い浮かべて書きたいと思う、ということ
5.そもそも手紙を書くという行為が好きであること
あたりがすぐにあがる理由でしょうか。中で書いたtipocaは2009年だけ郵便がやっていたサービスで、中面広告の年賀状を無料配布して使ってもらう、というものです。年賀状文化を守るのに役立つと思いますが、経済的理由によりなくなってしまいました。できればもう一度、年賀状文化を絶やさないためにも、何らかの形で復活してほしいですね。

年賀状シーズンは他の手紙を書くことができません。ブログも滞りがちになるかもしれませんが、ご了承ください。とりあえず、年賀状を書いてしまいたいのです。年賀状を心待ちにしている人たちのために、出番を待っている万年筆のために、そして何より、自分のために。

2010年11月1日月曜日

来年の手帳を決めて

11月です。11月になると勉強の時間以外はほとんど年賀状に割かれることになります。今年は約120通。毎年絞っているつもりなのにちっとも減っていません。

120通を11月から12月15日までで書き上げますから、単純には一日3通書けば間に合います。1通20分とすれば1時間です。もっとも、実際はそんなに短時間で書けるはずもなく、もう少し時間をかけることとなります。となると、来年の手帳を選ぶこの時期ですが、もうえらんでおかないと…ということになってしまいます。文具好き・手紙好きの宿命なのかもしれません。

さて、来年の手帳ですが、私はポケット手帳をあまり使わないということに気が付きました。昨年はsmythson、一昨年まではfIROFAXのシステム手帳、とポケットに入る上質なものを、と思ったのですが、夏ぐらいには使っていないことがあり、もったいなかったのです。そこで、初め検討していたsmythsonやレッツオブロンドンはやめました。日々の予定がはっきりわかる、台帳であれば私の手帳は事足りる、そういう観点から今年の手帳は、義理もあって、大和出版の2011ウィークリーダイアリーにしました。

さて、こちらの手帳はきちんと使われるのか、それとも使われないのか。楽しみなところです。

2010年10月31日日曜日

テストが最後の教育

第1志望を受験したその日から3年。大体「成績優秀」と言われる類の集団に所属し続けてきていて、その中で出来の良い試験も悪い試験も経験してきましたが、ペーパーテストを最後とする教育体制はどうかと、中途半端な出来の試験を見ると思います。

合否から言えば合格ですがぎりぎり、そういうテストについて思うことが「テストが最後の教育でいいのか?」ということです。

ギリギリ合格で終わらせたテストというのがあとになって響いてきます。その時はそれでよくて、喉元過ぎれば熱さ忘れる、という一夜漬けのテストも似たような状況です。友人で、現在数値計算のレポートに苦しんでいる人がいます。彼は「線形代数が学年最低点やったから」「プログラミングなんておぼえてないから」と言っています。「だから数値計算が苦手なのですか?」と聞いた時の返事は、きっと「違う」だと思います。その時のテストで通ったから、忘れて放っておいてしまったのが今の「苦手」だと思います。私は英語が苦手です。しかしながら、先生に色々教えてもらいながら学んだため、最低限に読めるぐらいにはなりました。得意とは言えずとも、英語を使って何かをする場合に困るほどではなくなった、といえます。友人は、確かに線形代数もプログラミングも通ったのかもしれませんが、まだよく身についていないところで放り出してしまった。それが今の「数値計算の苦手」に結びついているのだと思います。

テストは実力を測定する一つの手段として優れています。しかし、そのテストを最終目標に据えるのはいかがなものかと思います。それで一定の得点が得られていれば合格。体制としては楽ですが、ギリギリの人はその理解を深めるということをせねばならない、と思います。本来は個人でそれを行うべきなのでしょうが、個人で行おうと言う気にはなかなかなれない、というのが現状です。それ故、大学の単位など特にそうですが、「テストが最後の教育」になっているように思います。私は、それ自体をあまり歓迎していません。と言っても、テストをなくせと言っているのではありません。

テストに合格していても、それが怪しい、ギリギリの得点の場合、口頭試問やレポートの提出等を課すようにしてはどうか、ということです。理解が深まる、あるいは確認できると思うのです。学生としてはしんどいのかもしれませんが、テストを最後の一枚の判断基準とするのであれば、その基準の段階制をより強くすれば、と思うのです。

通ればいいという考え方は、資格試験や入学試験で十分です。それ以外の、学問の試験では、たとえ合格だったとしても、ギリギリだったら追加レポートを課すなどしていいのではないでしょうか。それは私のような学生にはしんどいことかもしれませんが、後々良かったと思えるはずだからです。入試が終わり合格したから数列の総和公式を忘れてしまって導けない、というのではなく、数列の総和公式は忘れたけれども理論的に考えて導ける、という方が良い気がするのです。

2010年10月30日土曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう その10

ついに第10回。71~80位です。

わたしの子供になりなさい:71位。意外と順位が低く、驚きです。好きな歌です。そして、歌いたい曲であり、以前一度、後輩の卒業祝いのカラオケでリクエストした「後輩に贈る曲を歌いなさい」を自分に言われたら選ぶ大本命でもあります。ここに書いているような「私」に私自身なりたいと思いますし、後輩にとってはそういう存在でありたいと常日頃思っています。そういう意味で、後輩に最も贈りたいのです、「もう間とか恋だとか難しく言わないでわたしの子供になりなさい」と。勿論それはかなわないことですが、しかしながら、この一曲で後輩への温かみが通じれば、と思います。

まつりばやし:78位。タイトルからは明るい曲、賑やかな曲と思って初めて聞いたのが何ヶ月前だったか忘れましたが、それとは随分違う曲調、そして中身に、驚きつつもずっと聞いている歌です。寂しいんですよね、それも祭りの終わりという意味ではなく。まつりのあとが寂しいのは吉田拓郎も歌っていますが、それとは違う。まつりばやしを聞いたときに、まつりで一緒にいた「おまえ」がもういない、その淋しさです。…祭ばやしは楽しいものなのに、お前のことを思い出して、寂しくて…そんなやりきれなさを描いているように思います。楽しい時間が寂しさを生む。そんな体験はまだ私に数えるほどしかありませんが、それでも、どことなくわかるところがあります。

他を選べず、今回は2曲としてしまいました。次回・次々回はこのまま続けて、100位まで紹介したら、少し休憩で、別の曲を紹介します。

2010年10月29日金曜日

競馬術の本を読んで

古本屋でワゴンセールをしており、その中に競馬術の本があったので読んでみました。

確かに、内容はもっともでした。その本のとおりやれば当たるだろうというのは予感しました。でも、正直に言って、私はその本は競馬の本ではないと、競馬を用いた金儲けの手段だと思いました。

著者は色々なことを書いていましたが、その内容の意図するところは「金儲けの手段としての競馬」です。私など、賭けはついで、自分の好きな馬がどうなるか見るほうが好きだ、という人間にとって、金儲けの手段としての競馬はあまり好ましいものではありません。正直、著者は競馬が嫌いなのだろうと感じるほどでした。それはその著者の意図するところと私のシコウとが違うところですから、しかたないところではありますが、けれども、競馬好きの人が書いた本ではありませんでした。競馬好きの人ではなく、競馬というギャンブルを用いてギャンブルに勝つ方法を書いた、あくまでギャンブルの本でした。

私は競馬が好きです。でも、競馬でお金を儲けるのが好きなのではありません。競馬というものが好きです。凱旋門賞も見ていました。「競馬でお金を儲けるのが好きな人」にとって、凱旋門賞はどうでもいいのでしょう。データ分析としてみるかもしれませんが、ナカヤマフェスタやヴィクトワールピサを応援するものではありません。中継である必要もありません。私はトルコ競馬のホームページから見ていました。

私は競馬が好きです。…そういう時に、賭けを想像する人もいるかも知れませんが、私は競馬が好きなのであって、馬券が好きなのではありません。サッカーが好きな人はtoto好きか、というと決してそんなことはないのと同じです。

サッカー好きが必ずしもtoto好きでないのと同様、競馬好きでも馬券好きかどうかは別問題だと感じました。私は競馬好きであり、馬券好きではないとその時思いました。勝つために馬券を買うのではなく、楽しむために、少額、馬券を買うのです。楽しむ競馬、スポーツとしての競馬です。それでいいではないか、と私は思います。

競馬術の本、内容はいちいちごもっともでしたが、正直私には口当たりの良くない本でした。

2010年10月28日木曜日

自分のブログへの疑問

疑問、と言っても難しいことではなく。

ブログの更新とコメント、その他色々な点について、自分なりに考えてみたのです。

1.なぜ時刻を夜中に設定するのだろう?
kammyさんのコメントにもありましたが、私は自分が書いた後、少々猶予を持って夜中に設定してタイムラグを置いて更新するようにしています。昼に考えたことを夕方~夜ぐらいに書いて、夜中に自動更新がかかるように指定して投稿。予定稿の場合は土日の昼が多いです。例えば27日の投稿(本音を言う話)は22日昼投稿で、26日の投稿は25日の昼投稿(最近好きな4.2.3の曲と、死刑に関するニュースを見たのでそれをあわせて)です。その時の設定を夜中にする理由が、自分でもよくわからないのです。気分なのかもしれませんが、起きてふとみたとき、更新されている、というのが基本的には気分いいから、ぐらいが理由でしょうか。夜中の思考がネガティブなのは眠れない夜で十分経験済みなので、夜中に書く事はないのですが、ではなぜ夜中に設定しているのかわかりません。とりあえず試しにこれは朝にしてみます。

2.なぜ機能をあまり増やさないのだろう?
ブログとしてはかなり低機能であり、ガジェットも追加していません。なぜ追加しないのかということなのですが、レイアウトを考えるとこれぐらいが妥当かな、と。ジャンル別は検索システムを知らないという理由でやめているのですが・・・なんとかなるなら、ブログ内検索位入れてみたいとは思いますが。

3.コメントのポリシー
一度目は返事をし、二度目以降は状況に応じてというポリシーで原則コメントの返事を書いているのですが、このポリシーが妥当なものなのかどうていて、これは、正直分かっていません。一度目は必ず返事をしようというのは、やはり、「見てくれてありがとうございます」という気持ちを表明したいからなのですが・・・悩ましいところです。

4.技術系がない
プログラミングやコンピュータ、あるいは気象学・物理学・数学について、数式やコードを用いた議論は避けていますが、なぜかと考えてみるとあまり理由が思い当たりません。多分、それらを書いたほうがいろいろな人が見てくれるとは思うのですが・・・。もしかすると、TeXで書き起こすのが面倒なのかもしれません。でも、最近面白い話題があったので、たまにはTeXを用いたブログでも書いてみようかなと考えています。

5.何より、なぜブログをするのか?
念のため再度自分に問うて、一番の答えは、自分という存在を思ってくれている人々に自分の生存証明をなすため、という結論を得ました。友人に「ブログの更新が半月以上止まったら何かあったのだろうと思ってくれ」と言いましたが、その指標たるブログでありたいと思うのです。それにより、何らかの「書く」行為が重要だと思うのです。

2010年10月27日水曜日

本音を言うと嫌われる、媚びれば嫌われない

当たり障りの無い無難なことを言ったり、あるいは媚びていたりする方が、本音を言うよりも好かれるようです。私のブログの「賛成/反対」もそうですし、amazonのレビューなどの「参考」票などを見ていても、またそれらに関する意見の書かれたブログやサイトを見ても、その姿が見えてきます。

厳しい意見は往々にして嫌われるものですが、それに限らず、数年前のKY風潮も含めて考えれば、人に媚び諂い、建前で生きていくほうがよほど無難な人間関係になるのでしょう。私の恩師は「媚びないこと」を座右の銘にしていらっしゃったそうですが、社会はそれを許容できるのでしょうか。地動説に大手を振って賛成したガリレオ然り、人生論ノートを著した三木清然りで、自分が正しいと思うことで、その根拠も話せるようなものであっても、権力側からすればそれは単なる邪魔なのです。

内部告発には勇気がいるといいます。それは自分の属する集団に対する楯突くことだからではないでしょうか。「ばれへんかったらええんや」とばかりに悪事を働く集団で、それに対して楯突くことで自分が損害を受ける。内部告発の報復事件はあとを絶ちませんし、公益通報者保護法も十分でないという意見があるようです。これも、「媚びていれば大丈夫なのに」ということの事例です。

戦後の日本は戦前とは違うといいます。けれども、本音が言えない状況は戦前も戦後も、いや、ずっと昔から変わっていないようです。私はまだ本音をよく言っている方ですからまだましな環境ですが(とはいえそれで嫌う人もいますが)、もっと強く「本音が言えない」状況に陥っている人もいるのではないでしょうか。日本国憲法で表現の自由が保証されていても、我々は結局のところ人間の柵で規制されており、言いたいことを言えない状況になっているのだと思います。

私は自分の書いた文章で媚びてばかりいる人を批判したことがありますが、問題はそこだけではないのです。媚びることによる利益が本音をいうことよりもよほど甘美だという風潮をなくさないと改善しないのだと思います。度合いの違いこそあれ、「意見を言う」ということについては、今の日本でも、戦前の日本でも、魔女狩り時代のヨーロッパでも、同じことではないでしょうか。「思っていても黙っているのが美徳」とはいわれますが、自分が悪いと思うことすら言えずに悪事に加担していくのが美徳なのだというのは間違っています。

本音を言うと嫌われ、媚びれば嫌われない世の中で、媚びることのできない私などは損な性格だと思います。こんな環境が強くなっていけば、やがて悪事は正当化されることでしょう。「戦前の日本は悪かった、報道などが規制されて、言いたいことも言えなかった」…報復は違うかもしれませんが、結局今もその風潮は変わっていません。戦前の「本音」を言う状況が悪い悪いと言っているかもしれませんが、少し前のKY風潮なども鑑みて、我々日本人は戦前の状況を創りだそうと躍起になっているのです。戦前も戦後も、本音をいうことについては権力側に規制されるか政府に規制されるかの違いしかありません。確かに色々な活動ができ、戦前よりは多く本音を言う機会がありますが、結局その本音も「言える」だけでしかないのです。言ったら嫌われると考えれば、風潮が変わったとは言い難いところです。戦前の日本が悪かったのは「政府による」表現の規制があったから、というところでしょう。政府でなければ表現の規制をしてもいい、そんな印象をうけることが多くあります。

本音が言えない世の中。媚びれば嫌われない世の中。気質が変わらなければ、その世の中は変わらないことでしょう。表現の自由についての誤った解釈で、「なら人を罵ってもよいだろう、表現の自由だ」という話がありますが、似たような問題が潜んでいるように思います。人を罵ってはいけないのはその当人が不快感を抱くから、もっと法的に根拠を求めれば名誉毀損罪になるからでしょう。では、内部告発は?簡単です。会社に不利益を与えるからいけないのです。たとえ世論が正しいと言おうとも、会社に不利益を与えるから、内部告発はダメなのです。法的根拠はないですが。

不利益を与えるからダメ、不快感を与えるからダメ、と言っているだけでは話になりません。「他が嫌がることを言うな」などといいますが、あまりに短絡的です。内部告発すべきところを本音で賛成している人は罰を受けるべきでしょうが、本音ではそう思っていないのに、保身のために言わないような、そんな状況は「他が嫌がることを言うな」を強く意識しすぎているように思います。自分が「正しい」と信じる根拠に足る本音を言えない世の中が続くのであれば、独裁者統治は目前です。

「言い方」はあるかもしれませんが、信じる根拠に足る本音はまともに言えるべきです。ある人に至らない部分を見つけたとして、それを罵倒するのはあまりよくないと言われ、それを指摘するのは問題ないとされる、これは言い方の問題です。言い方いかんを問わず本音を言えないような世の中は独裁へ向けてまっしぐらです。

きっとこの意見も「本音」ですから反対票が多いことでしょうね。

2010年10月26日火曜日

虫の死刑,人の死刑

昨日のことだった
一匹の蛾が
部屋に迷い込んできた
命を奪うことなく
部屋から出してあげた
もしかすると少し弱ったかもしれないが

夏のことだった
部屋には蚊がいて
たたきつぶしていた
次から次へと命を奪っていた

2年前だったか
スズメバチの巣が裏に出来た
危ないからということで
業者に頼んで
巣を取り除いてもらった

虫は人に害悪を成したとき
殺されたり
住処を奪われたり
そもそも近寄らないような防衛線をはられたり
いろんな「刑」を受けるのだね

今日テレビで
死刑の求刑の話があった
死刑は重すぎると
弁護側は言った
ならばそれは懲役になるのだろうか

虫は害悪をなしたら
裁判もなく死刑にされる
それは害悪をなしたから
窃盗や殺人よりも
もっと些細な害悪だけど
そんな害悪をなしたから

蚊をためらいもなく殺す人類に
蜂は危ないからと駆除する人類に
どうして
死刑なしができよう
害悪をなした人間を殺してはいけない
害悪をなした虫は殺していい
同じ「生命」なのに


学校でも世論でも
死刑の有無を論ずる

そんなご時世だけれども
死刑反対と言って
貴方は害虫を殺していやしないか

死刑の賛否は多種あろう
けれど死刑に反対するなら
害悪をなした虫を殺していい理由もないはずだ
死刑をなくすべきならば
なぜ殺虫剤をなくさない
死刑がありというならば
人の肌にかゆい出来物を作った程度で
死刑にしていいのだろうか

人間は
人間以外の生命を
無意識のうちに差別する

日本は危うい
日本という名前がなければ
どこまでも冷酷になれるから
…そう、中島みゆきは歌った

ならば人間は危うくないか
人間という種でなければ
どこまでも冷酷になれるのだから
人間は危ういのだ
その生命存在そのものが危ういのだ

なぜ人肉を食してはいけないのか
その問の答えを差別以外に見出せない
誰か教えて欲しい
どうして牛肉は食べてよくどうして人肉を食べてはいけないか
どうして植物は食べてよくどうして牛肉は食べていけないと菜食主義者は言うのか
生命の差別以外の答えを

2010年10月25日月曜日

ハリー・ポッター検定に挑戦してみました

ハリー・ポッター検定
http://www.geocities.jp/harry_fan_net/harry-kentei/index.html
に挑戦してみました。当ブログでもよく紹介しているハリーポッターですから、私も少しは得点できれば、と言う次第です。結果・感想を書いてみます。ちなみに、準1級までは80点、1級は90点合格です。

5級:さすがに100点満点ですが、即答というわけにはいかず、ほんの少し考えて、思い出してみないといけない問題がありました。残り時間は9分22秒(10分中)でした。

4級:90点/100点。マグルとは何かという記述式問題に「非魔法族」と書いて不正解になったのが解せません。記述式はやはりサイトに使うべきではありません。残り時間は13分51秒(15分中)でした。

3級:90点。こっちは正当に90点で、特に文句のある部分はありません。少々悩みますが、それでもとことん厳しいという印象はありませんでした。残り時間のメモを忘れました(^^;

準2級:80点。さすがに少々難しく、覚えていない問題が散見されます。忍びの地図の件を覚えておく必要がありそうに思いました。残り時間は9分12秒(10分中)でした。

2級:80点。読み込んでいるというレベルではなく、憶えてないと無理だという印象です。少々対策をすればというレベルではありません。ただ、読み込んでいるなら合格点は取れるようです。7分中6分28秒残りました。

準1級:80点。7巻迄読んでいて逆に迷った問題が1つ、問題自体が今ひとつと思ったのが一つ。前者は多分6巻までの何処かに記述があるのでしょうが、7巻で別のものが出てきて、それゆえにそちらではないのか?と思ってしまいました。後者については、多分解釈の違いではないかと思います。ルーピン教授の発言を適用するかしないかというところです。3分中2分9秒の残り時間でした。

1級:70点。唯一不合格になってしまいました。7巻の内容はないですが、6巻までをそれこそ一字一句覚えているレベルでないと厳しいと思います。5分中2分18秒残りです。その記述がある場面がなんとなく思い出せるけれど…というレベルの問題が多かったです。

以上、準1級までは全て合格し、1級だけ不合格。これなら一応、ハリーポッターの記事をかいても問題ないと思います。

2010年10月24日日曜日

fuente不参加

fuente、参加する予定だったのですが、今このブログを書いている時間になっても眠くならず(興奮しすぎ…?)体調いまいちなので、取りやめにいたします。皆様ご了承ください!

雑題集~文具とPCと紅茶と~

色々と雑記。

1.Windows7(Windows version6.1)発売1年
WindowsのVersion6.1が発売してから1年が経ちました。Windows6.0(Vista)発売後、あまりの悪評に作り直したらしいWindows7、パソコン関連のチラシも最近はWindows7(6.1)かXP(5.2)になりましたね。とりあえず、Version6.1のくせに7と言う名前をつけた詐欺まがい商法のWindowsはずいぶんと変わったようで、現在6.0が入っている自分のPCが恨めしいぐらいです。来年には新しく買いたいところですが。

2.文具券廃止
私もよくお世話になった文具券、今年末を持って廃止だそうです。図書券も図書カードになった時代、文具カードってできないかなぁ・・・と思いますが、業界内の人でも「厳しい」とくらい予想が聞かれる文具業界、正直文具カードを求めるのは不可能な気がします。1万円分も文具買う人はごく一部ですし・・・。

3.プラチナ「年賀状を万年筆で描こう」キャンペーン
併催で、万年筆購入におまけを付けるキャンペーンも。対象商品はプレジールなど、安いものばかり。パイロット・セーラーに比べて地味な印象と(初心者に)よく言われるプラチナですが、私の知る限り、現行定番万年筆で14K,18Kが最安値で手に入り、初心者用の万年筆も充実している素晴らしい会社です。インクもいいものが揃っていますし、蒔絵コンバーターもなかなか面白く、好きな会社の一つです(ただ、高級ラインがパイロットやセーラーに比べて一段見劣りする気はしますが。)。初心者に向けては最高の会社の一つであるプラチナのこのイベント、プラチナの「万年筆布教戦略」なのでしょうね。私も応援しています。当ブログ管理人は万年筆を布教するすべての会社、すべての個人を心より応援いたします。

4.Google Chrome OSは来月か
ずっと以前からGoogle Chrome OSと検索をかけると、今年中、あるいは今年11月リリースと言われているのですが、さて、どうなのでしょうか。大変注目しているOSです。ベータ版レビューは後日このブログで行ないます。

5.新たな紅茶を知って
iGoogleのガジェットに入れている「ALL About Gourmet」、ここで、おすすめブランド紅茶特集(http://allabout.co.jp/gm/gc/322268/)が出ていました。いつもどおり、「どこかな?」とみにいって、1ページ目はまぁ、いつものだな、と通り過ぎました。2ページ目、Laduree、全然聞いたこともなかったので、ふと見ると銀座!ナイスタイミング、後でfuenteの時行ってみよう♪と心踊らせております。その下のTWG teaは日本上陸時からずーーーーーーーーーーっと気になっているのですが、なぜか自由が丘に行く機会がなく、まだ行っていません。

雑題でした。

2010年10月23日土曜日

<未来日付での投稿> fuente当日日程

fuenteのoff会の参加予定を大幅変更致します!
行くのは一日だけとし、行脚内容も変更します。
あわせてくださっている皆様、大変申し訳ありません!

10月24日のみの参加とします。
10時頃より13時頃まで:紅茶・文具を中心とした銀座行脚(菊花賞馬券購入を含む)
13時過ぎ:会場到着後、講演会終了まで。
オークション前に:会場を抜けて、もう少し紅茶・文具を中心とした銀座行脚をします
その後帰宅。

すいませんが、会場にいるのは24日の13時から講演会終了までとさせていただきました!
お会いできる方、よろしくお願いします。また、変更につき問題の出てしまった方、大変申し訳ないです、ご了承くださいませ。

2010年10月22日金曜日

ついに公開!万年筆布教概論

いろいろあって、WAGNER投稿したものの、「公開は自分のHPでしてもらえると助かる」と会長がおっしゃるので、私のHPで、PDF「万年筆布教概論」を公開いたしました!

右側のリンク集から見ていただければ、と思います。
本ブログと内容を変更しましたので、読んでいただければ幸いです。

2010年10月21日木曜日

演習問題の解答

特に洋書あるいはその翻訳版を購入した場合に多いのですが、「学生が解答を見てしまうという誘惑に負けないように」解答を載せない、という本を多く見かけます。単に紙数の都合や著者の手間の都合だと私は思うのですが、あまりにそう書いている本が多いので少し気になりました。

学生の中にも「解答を見てしまう誘惑が・・・」という人がいるのですが、それもなぜいけないのか、と思います。わからない問題、あるいはすぐに手がつきそうな問題について、ひとまず手本を示してもらうのは勉強の一つの手段だと思います。高校から受験数学に向けて、一番勉強になったのは「こうやって解いていく」解答を見せてもらったところでした。宿題やテストなどで「解答が既にある」のは困るのかもしれませんが、そうでなければ解答はあって問題のあることはないと思います。宿題に出す、などの配慮をしている本もありますが、正直、全問題解答なしというのは授業での使用を目的としており、わざわざ書籍にする必要はないのではと思います。私もいくつかのドキュメントを記しましたが、簡易な解答を付したり、授業利用が主となる場合はそれを明記したり、独学中心のものは解答例を示したりしています。

解答を付す事について文句を言ったりする人がいますが、私はそれには賛成しかねます。解答からも学ぶことがあると思います。特に、私がよく説明するプログラミングについては、ひとつの解答例と自分の解答例がどちらも正しく動作するとき、それらを見比べることで多くを得られます。

解答例を避ける傾向にある書籍ですが、解答例はむしろ積極的に付けるべきだ、というのは私だけなのでしょうか。そういうのは全部演習問題書に任せればいいのでしょうか。練習問題の少ない、プログラミング入門の分野を見ていて特にそう思います。

2010年10月20日水曜日

ハリーポッターの名言6:「私に誇れることがあるとすれば」

これを聞いてすぐにどこから引用したか分かる人はちょっといないのではないでしょうか。これは「名言」なので当然地の文からは引っ張っていないのですが、さて誰か。全文では
「私に誇れることがあるとすれば、それは、君がそれほど多くを学んでくれたということだ。」
と書いています。ルーピンが3巻で去り際に残す言葉です。真の意味での教師として素晴らしい言葉なのではないかと思います。

以前、大学への数学という雑誌に、何度か名前が載ったことがありました。数学が好きなのもありましたが、それ以上に、色々教えてくださった先生のおかげだと感じましたから、お礼を言いに行ったとき、その先生が仰った一言を今でも克明に覚えています。
「私は何も教えられてはいない。生徒の勉強の方向を示し、やる気を出させるために何かをすることはできるけれども、そういった実績は貴方のがんばりの証だ。」
その先生は今、私の母校とは別の学校で教鞭をふるっていらっしゃるとのことですが、大変お世話になった先生であり、今でも会いたいと思うことも多くあります。

ルーピン先生のこの一言、教えることもある自分にとっては至言の一つとなっています。私が教えたことではなく、君が学んでくれたことが嬉しい、それが誇りである。そんな考えを持つことができるから私は教えることができるのであって、そう思えないならば私はもうとうの昔に教えるということを真剣に考えることはなかったでしょう。

今でも後輩に色々教える機会があります。時には、留年した自分の元同級生がより先の質問をしてくることもあります。そんな中で、相手が私の言葉から何を学んでくれるか。多くを学んでくれることがやはり一番うれしいし、後輩の幾人かは、私が教えたことを指針にしてくれたとも言います。私はコレといって教えられる人間ではありませんが、しかしながら、教えてくれと言われるときに、相手が多くを学び取ってくれることに誇りを感じるのであれば、教えるのには向いているのかもしれません。何も学ぶところなき私から、なぜか学ばれる多くの友人や後輩に強い尊敬の念をいだきます。

2010年10月19日火曜日

やった!アパパネ三冠だ!

秋華賞でアパパネが、追い込んできたアニメイトバイオを振りきってゴールしたのが17日の15時45分ごろ。友人の大きなテレビで見させてもらっていた私は思わず歓声を上げました。

ちょっとだけ買っていた馬券も、+690円、と健闘し、ありがたい限りです。

アパパネの三冠は、競馬を初めて間もない私にとっては「こんなに早く三冠が見られるなんて」と驚きのものでした。私が馬券を買い始めてまだ1年経っていないからです。本当にラッキーな年に競馬を始めたと喜んでいます。

2010年10月18日月曜日

誰も書かなかった中島みゆき論ベスト200を聞いてみよう その9

ついに第9回です。たまったらHPでまとめます。
61位~70位ですね。

ALONE,PLEASE:61位。なんとなく、曲調が大人っぽくて、"Leave me Alone,please"のリフレインが静かに響きます。この一言が、泣いているところを隠している、そんな大人を表しているのだろうと思います。そう思うと、まだまだ私は子供で、むしろ昔からの、「泣けなくなるなら大人になりたくない」という思いが頭をもたげてきます。"Leave me Alone,please"、私にはあまりないですが、それでも友人で幾人かそういう人が居て、一人で始末してしまうのをすごいなと感じながら、大丈夫かなとも思ってしまいます。

歌をあなたに:67位。「あんまり淋しくて死にたくなるような日は、この手の中の歌声を受け取って歩くのよ」の一節が好きです。寂しくて死にたくなるような日、というのはものすごく具体的で、あまりに実感できるという怖さがありますが、それでもそんな日に「この手の中の歌声を受け取って歩く」、何もできなくても歌を贈るという温かさが現れています。そんなあたたかい声があって、私は寂しさを克服できたのだと思いますが、しかしながら、寂しいと死ぬというのはうさぎだけではなく人間でもあり、それを何とかするという意味でも、先の一節が大好きで仕方ありません。

五才の頃:68位。いろいろな解釈があるみたいですが、私はそこまで深い解釈はできませんので、もう少し浅い、感想です。「泣きだそうとしても 泣き顔がない」それが現実です。私は泣きますが、でも泣き顔がわからないのです。なぜなら、心で泣いても、体で泣いた覚えが無いからです。少しだけ、ほんの少しだけ、後輩たちの心遣いに嬉しくて泣いたのがいったいいつだったでしょうか。本当の意味で泣くのがいつなのか、そして、今泣き顔のなくなった自分は、泣き顔を手にできるのか、5つの頃を思い出して…という気のする歌です。

2010年10月17日日曜日

専門は自分が決めるのではなく人が決めるものだ

タイトルは私がお世話になっている先生の言葉から。先日の講義の中で仰ったもので、大変心に残りました。

私を世間一般の「立場」あるいは「所属」的な面から見たとき、専門は気象学ということになるのでしょう。ところが、私のことを知っている友人と話をしていると、それが多く分かれてくるから面白く、そして悩みもするのです。

ある友人は、私の専門は気象学だといいます。自分の友人の中でこれほどまでに気象に興味を持っている人はいないといいます。それが事実かどうかはわかりませんが、少なくとも数年前の私は気象学についてはそれなりに勉強しようと志していました。今、それと同じモチベーションを保てているかどうかと聞かれると疑問符が残るのが情けないところではありますが・・・。

別の友人は、私の専門は情報学だといいます。確かに先日情報処理学会学生会員としての登録を済ませました。しかし、所属という側面から見れば私は理学方面の人間であり、工学方面ではありません。趣味としてプログラミングやアルゴリズムをやっていて、システムいじり等もやっていますが、しかしながら、気象学よりもやる気が起きてしまうというのは、私がこちらの適性を持っているということなのかもしれません。

また別の友人は、私の専門が数学だといいます。これほどまでに数学マニアである人間は達哉んを差し置いて知らないといいます。数学は確かに楽しく、趣味としても読んだり解いたりしていますが、それが専門だと言われると正直それだけの知識はないように思います。例えば私は整数論が好きですが、イデアルについてはその言葉が何を意味するのかすら知りません。高木貞治著「初等整数論講義」もずっと読んでいません。

他にもいくつかの学問分野が専門だと言われますが、人数で言えば概ね、気象と情報がイーブンで、その1/4ぐらいが数学専門という感じです。実際、私が最も研究してみたい分野はかなり情報よりの、しかしながら気象学にも絡むものです。多くが言う以上、「専門は自分が決めるのではなく人が決めるものだ」から、言われるとおりにとれば私は気象と情報が専門ということになるのでしょう。

それでも、専門がひとつに絞られず、たまに「日本語専門の間違いでは?」等と言われるのは嬉しい限りです。興味の続く限り貪欲に知識を吸収したいと思っていますが、私の本棚には、数学・物理・情報学・気象学以外に、天文学や日本語学の専門書もあります。多くの意見を取り入れて私が気象と情報の間の子の専門だとすれば、その二つを存分に学びたいと思いますし、同時に、他の分野についても理解していきたいものです。

2010年10月16日土曜日

fuente2010オフ会予定

今年もフエンテのオフ会の時期がやってまいりました。いよいよ来週です!さて、例に従い、私の予定を公開しておきますので、ご存じの方で居らっしゃる方は是非お会いできれば、と思います。なお、今年はフル参加を予定していません。東京に行くのが久しぶりなので、少々別のこともしながら、という次第です。

初日(10/23) ~ちょっと早めに抜けて 文具と紅茶を楽しむ~
10:00 鳩居堂到着・30分ほどのお買い物(年賀状?)
10:30 伊東屋到着・30分ほどのお買い物(年賀状?)
11:00 会場到着・準備手伝い
16:00 銀座行脚(レモン社/ペンクラスター)
17:00 恵比寿方面行脚(ロウレイズティーショップ/ヒギンスetcのために)
18:30 自由が丘方面行脚(TWG tea/Lupiciaのために)
以降、夕食帰宅

2日目(10/24) ~本格的に最後まで?でも途中で一旦…~
10:30 銀座WINSで菊花賞馬券購入
11:00 会場到着
<講演までの間に> 一旦抜けて、キングダムノートや書斎館へ
15:00 講演会
<オークションの初めの方で少し抜けて> 馬券払い戻しへ
<戻ってきて> オークション参加
<オークション後> 立食パーティー参加
立食パーティー終了後帰宅

以上のとおりですので、当日達哉んと会ってやろうという奇特な方は書いてあるお時間に来ていただければと思います。なお、報告はその日のブログに記します。

おっと、その前に20日締切りのfuente51号原稿を書き上げねば…

2010年10月15日金曜日

2つのゲームの「愛のテーマ」

ゲームの曲にきちんと歌詞がつき、歌手もいて…というのは、私が生まれた頃には殆ど考えられなかったことなのでしょうが、現在のゲームはそんなことはなく、多くのゲームの主題歌が普通の歌謡曲として捉えられるレベルになってきていると思います。勿論、そんな中でゲーム音楽はゲーム音楽とけじめをつけているものもあり、それも好きです。桃鉄は好きですが、その主題歌に無理やり歌詞をつけた「それいけ桃鉄!~紅白バージョン~」は桃鉄ファンでないと聞けないと思っていて、そんな曲にするぐらいならゲーム曲でよかったのではと思います。

そんな、歌謡曲としても通用する歌詞付きのゲーム曲に、二つの「愛のテーマ」があります。FF4とMOTHER3のそれです。

FF4の歌詞付きはDS版が出てからでしょうか。伊田恵美さんが「月の明かり~FF4 愛のテーマ~」として歌っているものです。FF4は、世界よりも一人の女性を選ぶ、そんな主人公を描いています。最終的に世界が救われるのはRPGどおりですが、それでも、熱情的な恋愛の「愛のテーマ」だと思います。歌詞にそれがそこまで深く現れているようには思えませんが、曲調はヒロインがヒーローを想うことを十二分に表現していると思います。

同じ「愛のテーマ」でもMOTHER3の「I Miss you~愛のテーマ~」はコンセプトが随分違います。FF4のそれが恋愛的なものなのに対し、こちらは母性的な、家族に対するような、特に自分の子供に対するようなそんな愛情を示しています。MOTHERのタイトルが示すとおり、このゲームは母親がキーとなるゲームですが、そこに現れる家族愛を表現した優しい曲がこの「愛のテーマ」だと思います。こちらはゲームと同時に歌詞ができて、マッチングしていますが、先に書いたとおり歌謡曲として通用するものだと思います。

その二つの愛は、どちらも人間が有している愛で、実はひとつの愛の過程です。恋愛の始まりでは、きっとFF4のような愛を持つのでしょう。それが、おしどり夫婦というような、長い年月を経て、後者へと変わっていくのだと思います。恋する愛情が、愛惜しむ愛情へ変わっていくということです。そんな、愛情を注ぐ言葉は色々あるけれども、可愛いがそのひとつなのではないかと思います。

高校などで古語について学ぶ機会があれば、「いとけなし」や「らうたし」といった様々な「可愛い」之表現を知ることとなります。その表現はどれもニュアンスが違っていて、昔の人はカワイイは可愛いでも色々といい分けていたことが伺えます。

今は「かわいい女の子に声をかける」と「かわいい赤ちゃんですね」とが、同じ「かわいい」です。そのことがこの二つの愛のテーマに現れているような、そんな気がします。

2010年10月14日木曜日

紅茶を飲もう その2

紅茶を飲むのは私にとって日常的なことですが、しかしながら、その中には色々なことがあって、紅茶を飲むと一口にいってもそれだけでエッセーを書けそうな気がします。そこで、それを少し書いてみよう、と思います。

--飲もうや、の意味するところ--
私は酒を嗜みませんから、友人後輩含め、私が「飲もう」というと自然に紅茶とわかります。よし、今晩はじっくり飲むか、というと、間違いなくお茶会です。ですが、その飲もうに、3種類の意味があることは、実は知られていないようです。

1つは文字通り、軽く飲むだけ。ちょっとお茶でも飲みながら軽く話すか、という、日本人の発走で言うところの「喫茶店に行って」に近いものです。時間は短く、お菓子も多くは出しません。

2つ目は、味わう意味での飲もうという場合。この場合は紅茶そのものが主役です。あるいは、いいお菓子を手に入れたから、という場合もあります。いずれにせよ、味わうことが主体であり、多くを呼ぶのですが、あまり来てはくれません。部屋の収容人数よりもよほど多い人数を呼んでいるのが間違いですけども(^^;

そして、最後の意味が、イギリス人の言うところの「お茶」です。それは食事のレベルで、かなり多くのお茶菓子とお茶を用意していて、軽いパーティー、あるいはアフタヌーンティーです。今度帰省して機会があればムジカティーのアフタヌーンティーセットを頼もうと考えていますが、そのレベルです。食事といって良いレベルでのお茶、そう滅多にはしませんが、これは本当に大々的に準備をします。最近やっていませんが、ハロウィーンにはジュースもお菓子も用意してやりたいなと考えています。

美味しい紅茶を飲むことは、ただ会話の潤滑油のためだけではありません。色々な意味があって、紅茶自体も楽しめるお茶会を開くこともあります。そのすべてが「飲もうや」で終わっているから、なかなか人を集めにくい気がします。もう少し明確に誘えればと思うことがあり、招待状でも用意しようか、折角便箋は余っているのだから、と考えているほどです。

ハロウィーンまでに用意するものリストに招待状を用意するか、ちょっと悩んでいます。

2010年10月13日水曜日

ハリーポッターの名言5:「何があろうと、僕たちは君と一緒だ」

前回あまりに書かなかったのを反省しました。

ハーマイオニー・ハリーをどちらも紹介したので、さすがにロンも紹介したいな、と思っていの一番に出てきました。「何があろうと、僕たちは君と一緒だ」、前々回紹介したハーマイオニーの名言と同じ場面に出てきます。

友情を感じる云々といった話はあまりに当たり前すぎるので止めます。そういう話ではなく、この言葉を注意深く読むこと、そして7巻でのロンの行動とそれを照らし合わせることが重要です。さらに、ダンブルドアの意図も一役買ってきます。

「何があろうと、僕たちは君と一緒だ」というのは、勿論精神的な部分での話です(物理的にずっと一緒というのはありえませんから)。これを言い切るだけの関係というのは確かに深い友情なんですが、それを最も端的に表しているのが7巻でのロンの行動なのです。

ダンブルドアが火消しライターをロンに譲った理由は7巻の中で明らかにされますが、それは「何があろうと、僕たちは君と一緒だ」という発言が根底にあってこそだと思います。何があろうと一緒であるという、何があっても精神的に味方であるというのは本当に難しい。最後の最後までそれを貫き通すところが、ロンの最もすごいところだと思っています。

私は何らかの団体において年齢その他において立場の弱い人にできるだけ味方をしたいと思い、またそのような行動を取るように心がけていますが、そうあったとしても「何があろうと、私はそんな人と共にある」とは言えません。

ロンの決意、そしてそれを実行したロンに、最もふさわしい名言、それが「何があろうと、僕たちは君と一緒だ」であり、これを言えるだけの精神力を持っていることを賞賛したいと思います。

2010年10月12日火曜日

「しんどいよぉ・・・」の一言

10年前、喘息で咳が多く出て体もしんどい時、よく「しんどいよぉ」と声を上げていました。ほとんど泣き声でしたが、それでも、「しんどいよぉ・・・」と言っていたのは随分多かったように思います。

今、自分の体がしんどくても、しんどいと声に出して言うことはなくなりました。何かをやってくれと言うにしろなんにしろ、自分が何かしないと話にならないからです。しんどい日は決して少なくなくて、視神経が痛いのか頭がいたいのか顎関節が痛いのかわからないぐらい首より上全体が痛いようなこともあるのですが、しかしながら、しんどいといったところで、周りは何もできません。薬なども含め、全部自分が管理しているのだから、「しんどいよぉ・・・」は全く意味をなさなくなったのです。

10年の「しんどいよぉ・・・」の差を見て、時の流れを感じます。体がしんどくても、今はもう「しんどいよぉ」ということなく過ごす自分がいます。そんな中で、ふと気づけば、携帯やなんかでしんどい中でもいろいろな指示を出している自分を見て、休みたいなと思う時もあるのですが、しかし本当に休むということができてない様にも思います。

ちゃんと眠れる、というのを、自分の体が本当に欲する意味で眠ると仮定したならば、いったい私はどれほど眠っていないことだろうか?薬で眠っている自分が、薬の影響を離れて、その上で十分な時間眠れたのは、どれほど前なのだろうか?…そう考えると、しんどいよぉと言えていた時代も懐かしく思えます。その頃には、眠れないことなど、ほんの少ししかなかったのですから。

2010年10月11日月曜日

tracertコマンドにハマる

コンピュータネタです。と言っても、技術ではなく。

最近はWiresharkを用いたパケット解析を勉強中。オライリー社の「実践パケット解析」を学校の先生に貸していただき、また、ゼミでも習い、という状況です。その第1回で学んだことの一つが

traceroute(Winではtracert)コマンド。

pingをいつも使っていましたが、これははまります。routingがわかるんですから。
どこ通ってるのかな?と見てみると、近いと思ってるところが意外と遠くて面白かったりします。

2010年10月10日日曜日

C言語の底力

今、JAVAとC++を並行して学習していますが、根底にあるC言語の考えもあってか、C言語の底力を見せつけられているように感じます。

似たり寄ったりの文法や概念があり、かなり速いペースで読むことができます。特に、今読んでいるのは入門書というのもあってか(次に本格的なものを読みますが)、非常にスムーズに、むしろ説明がくどいとさえ思えるほどに手早く読むことができます。

C言語は古びてきた言語なのかもしれませんが、自分が勉強するにつれ、その底力をなんども実感しています。

2010年10月9日土曜日

紅茶を飲もう その1

紅茶を飲むのは私にとって日常的なことですが、しかしながら、その中には色々なことがあって、紅茶を飲むと一口にいってもそれだけでエッセーを書けそうな気がします。そこで、それを少し書いてみよう、と思います。

--違いがわからない--
紅茶を飲んでいて、多くの紅茶を擁していますが、それらを飲んでいただいても違いがわからない、とおっしゃる人がいます。勿論、比較しながら飲むような会は別として、単独で飲んでいただいているときには違いがどうのこうのと言わなくても美味しいかどうか、自分が好きかどうかさえわかれば十分なのではないかと私は思っております。
先日、「違いがわからない」とおっしゃる方がいらしたので、ちょうど淹れていたバングラデシュに対し、明らかなまでに違う、2010ダージリンファーストフラッシュ,キャッスルトン農園のものを淹れて、飲み比べていただきました。そうすると、その方は「違いはわかるが、何が上質で何が上質でないのかわからない」とおっしゃいました。
上質かどうかというのは店側の言い分であると私は考えています。勿論、飲むときにキチンと葉が開いてくれて、いただいて美味しいと感じるものが良いのではありますが、それ以上の段階で上質どうのこうのというとき、これはもう店や農園といった販売側の目線になってきます。販売側は然るべき茶葉を選び、それが安全でおいしいものとして我々消費者に届くようにしてくれています。その時、我々消費者に対しての売り文句として、良質、上質というものがあるのであって、美味しいかどうかというのは別問題なのだと思います。

私は、紅茶を多く飲んでおりますが、良質・上質という言葉の実態を説明するには至りません。どれが上質な葉なのか、と問われたときに、比較的良いものを選ぶ、ということは当然できますが、上質とはどの水準で上質なのかと問われても、私は説明することができません。
ただ、上質かどうかということよりも、私はクオリティーシーズンか否かを気にします。クオリティーシーズン、聞いた感じは上質かどうかというように聞こえますが、実際は”旬”です。紅茶にも旬があり、それは産地などによって変わりますから、其の旬の紅茶をいただくことが私にとっての「上質な」紅茶です。

上質かどうかというのは観点によって変わりますが、私の考えとしては旬かどうかである、というのが一般的な方々への説明として妥当なものなのではないだろうか、と思う次第です。

2010年10月8日金曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その8

51位~60位。このあたり、聞いたことのある曲が少なくなってまいりました。

愛から遠く離れて:51位。「愛から遥か遠く離れて生きるとき」、それはある意味では愛情を感じにくいような集団にいるようなときではないかと思います。愛情があっても、それをつかめるように感じないとき、我々は愛から遠く離れているのだと思います。そんな時に、「船が出るかもしれないから」、その時を待ち続けて、時間がわかったら余計にしんどく感じるから、時計を捨てようと、そういう事なのでしょうか。しんどい時、どうしていようか…そんな問の一つの答えのように感じます。

カーニヴァルだったね:56位。「注がれる酒に毒でもあれば...」、私自身幾度か、「飲めぬ酒を無理に多くのみ絶命しよう」と考えたことがあるから、非常に強く響いたフレーズです。なぜここにいるのか、なぜ生きていなければならないのかと辛い時があったことで、この歌詞の辛さが感じられます。カーニヴァルだった、そんな以前に比べて、今は苦しくてしんどくて…。過去をカーニヴァルであるかのように美しく感じるのは私だけではないのでしょうか。

MEGAMI:58位。「見返り無用の笑みをあげよう」というのが残ります。見返り無用の笑み、というのは人間が無限に持っている愛情の本来の与え方を示しているような、そんな気のする歌です。だから「女神」なのだと。人間が本来持っている愛情を、人間の性にとらわれることなく無償で分け与えようと言う、だからMEGAMIなのだと思います。愛情、それはどうあるべきかを歌っているように思います。

2010年10月7日木曜日

本を丸一冊机から出せますか?

まず、下側の写真を見てみてください。この写真、撮影したものか合成写真かどちらでしょう?
後ろのゴチャゴチャは置いといてもらいまして(^^;

ミスター味っ子の本を積み重ねています。そしてこれ、一番上の本は赤い線で示したとおり、机の端からまる一冊分出ています。
これ、何かのパズルの本に出ていた問題で、さすがにそこから画像を取ってくるのは今ひとつなので自分で画像を作ったものです。
で、問題となっているのはこの画像の作り方。写真でとったのか、合成画像なのか?ということです。勿論、真ん中の赤い線は別として。

これ、物理的に可能で、実際に撮影した写真です。上から順に、漸化式的に重心の位置を計算していきます。本はすべて一様とすればよいのです。

一番上の重心の位置を0として、その重心から上2冊の重心を定めます。定めた上2冊の重心から、上3冊の重心を定め、以下それを繰り返していきます。どの重心もその下の本もしくは机の上に乗るように設計すれば可能です。

原理的には、2冊分、3冊分…出すことも可能なはず。それを計算してみようかなと思います。剛体力学ですが、面白そうな問題です。勿論手計算は面倒ですから、プログラムですが…。

2010年10月6日水曜日

ハリーポッターの名言4:「なら僕は人間でいるのは嫌だ」

ものすごく久しぶりのこのシリーズ。なんと1ヶ月以上空いています。予定稿の時期に出しておけばよかったと反省。

さて、今回の名言は(漸く)ハリーの言葉です。「なら――僕は――人間で――いるのは――嫌だ!」と、ダッシュで区切られながら書かれる、不死鳥の騎士団下巻625ページの一つの見せ場だと思える場面です。愛するがゆえに苦しむ、その苦しみがあまりにも強すぎて、もうそんな苦痛を感じる人間であることが嫌である、というハリーの言葉です。

私は幸いにして、ハリーよりも親族にはずっと恵まれています。父母だけでなく、祖父母も健全ですし、弟までいます。そんな状況でハリーの事がわかるというのはおこがましいと思うのですが、それでもこの言葉はものすごく心に残っています。

愛するということは別に家族だけに出来る行為ではありません。勿論、家族には大抵最大限の愛情を注ぐことでしょうし、その愛情が途切れることもまず無いでしょう。源氏物語などでは「見捨つ」を「死ぬ」という意味で使いますが、これは子供のことを親が見捨てるのは死ぬ時以外ないから、という説明があるほどです。ハリーの世界ではそれ以上であり、親の愛情は、炎のゴブレットや死の秘宝でも見られます。

それでも、その愛ある縁を失うことは、それが永遠のものと思われるときにはひどく辛いものです。ハリーの場合はそんな縁がもともと少ない。そうあれば、もう人間であるのは嫌だと、愛を失うその辛さを味わうことはもういやだというのもうなずけます。

永遠の生を描く作品の多くは、大抵、愛する者が皆先立ちゆくためにその生を後悔してしまいます。それを見ている限り、私にとって永遠の生は全くもってほしくないものです。その一方で、私が死ぬその時にも、幸いであればそれを悲しむ、辛く思う人がいることでしょう。世界中の全ての人に嫌われれば話は変わるのでしょうが、それだと生きているのが辛いものです。死ぬこと、その一番の怖さは、私にとって、私を愛してくれるありがたい人々に辛さを感じさせてしまうことです。

ハリーの言葉は、勿論シリウスの死にあたっての言葉ですが、同時に、死とそれに伴う愛の喪失を描いた含蓄ある言葉だと思います。「なら僕は人間でいるのは嫌だ」、私という人間が失われて、それを悲しむ人がいるのであれば、いっそ非存在がいいと、そういう意味では、私も人間であるのはいやです。

2010年10月5日火曜日

エーデルシュタインインク発売の情報(噂段階)

ペリカンのエーデルシュタインインクの発売情報が少々入りました。

その「筋」で流れている噂の段階を出ていないのですが、一応輸入筆記具協会関連者によれば今年末か来年始めではないか、とのことです。

20USドルらしいですが、日本なら2000円ぐらいの販売価格でしょうか。折角なので私も購入しようと思っていますが、最近は青と黒とセピアしか使っていない私、何を買うのやら・・・

2010年10月4日月曜日

医者で思い出した祖母

かなり久しぶりに新鮮な(予定稿でない)内容です。

先週の木曜日、喉が痛くて扁桃腺が真っ赤に腫れ上がっていたので風邪薬を飲んだりして過ごしていました。土曜日まではそれで問題もなかったのですが、昨日。朝起きて、布団の中にいるのに寒気がして震えているのです。あまりに寒いので、もう一枚布団をつかんで二枚にして漸く震えはおさまりましたが、熱を測ってみると39度ごえ。昼には37度台まで下がりましたが、それでもさすがに医者に行ったところ、風邪と、気管支炎だろう、という診断でした。

気管支炎、と聞いて思い出したのは10年前のことです。10年前、学校を休み、いつもの耳鼻咽喉科に祖母と共に行った時の診断が気管支炎でした。その後、タクシーで5分ほどの国立病院に行ったことを思い出したのです。

祖母は厳しくしかることもありましたが、孫の私にはやはり優しく、祖母から学ぶことも多くありました。今でも読書が好きですが、それはいつも本を読んでいた祖母の影響が強いからだと思っています。

気管支炎が祖母のことを思い出させてくれて、既に他界してはいるものの、ふと、横にぬくもりを感じたような気がしました。「ゆっくり休みなさい」と。

2010年10月3日日曜日

結局手紙は届いたのか

実は8月の中旬からここまで、ほとんどずっと予定稿です。テストやらなんやらで、鮮度ある投稿というのは殆どありません。とれたてピチピチの、鮮度の良い投稿は、多分明日から再開できると思います。予定高というのは便利で、思い立ったときにどんどん書く事ができますから、ついつい書いてしまうのですが、それだけでいいというものではありませんよね。

それではその間に何をしていたのか、というと、ほとんどは勉学に時間を費やしておりました。テストの真っ最中というのもありますし、何より、テストの不安は眠る時間を減らしてくれますから、勉強するかきちんと眠るかが重要な課題となったのです。ただ、そんなテストの時期に入る前に、帰省の時の手紙を書いて送りました。

ここ2年、「一日一通の手紙を」と思っています。これはあくまで平均すればの話ですが、平均して一日一通は手紙を書こうと。実際にカウントしたわけではありませんが、折々に出す手紙は100通以上になりますから、きっと達成してるのでは?という次第です。しかしながら、実際にそれを数えたわけでもないですので、本当に達成しているかどうかわかりませんでした。ところが、この9月から、自分がいつ誰にどんな手紙を出したか忘れてしまって、短い期間に同じ人には2回出すのに他の人は無視しているという状況が起こっているのを防ごうと考えたことから、手紙ノートをつけることとしました。これによると、私は 9月に22通の手紙を出しています。年賀状が100通強加わることを考えると、私は9月以降(平均として)一日一通を無事に達成できることとなります。お、なかなかじゃないかと思うと同時に、真の「一日一通」を来年は実践したいと今から考えています。

手紙を毎日出すことはブログを毎日書く事と似ています。手紙をある折々に一気に出すことは、ブログを予定稿で書いておくことに似ています。ある意味で私は、手紙も「予定稿」でしのいでいるのです。厳しいかもしれないけど、「予定稿」なしでブログも手紙も出来れば…というのが理想です。

そんな手紙ですが、最近は二つの意味で、届いているかどうか気にするようになりました。一つは、物理的に届いているかどうかということ。出したはずの手紙が残念ながら届いていなかった、というのが暑中見舞いの時に2通ほどありました。私のミスなのかもしれませんが、無事届いていなかったのは残念でした。もうひとつは心理的な意味で、私が手紙を書いて出しているというその思いが相手に届いているか、ということ。私の好きな中島みゆきの歌の一つに「I love you,答えてくれ」というのがありますが、その心境です。「愛さずにいられない馬鹿もいる、気にしないで受取ればいいんだよ、愛さずにいられない馬鹿もいる、受け取ったと答えて欲しいだけさ」…その心境でしょうか。愛さずに、手紙を送らずにいられないバカもいる、それが私です。そんな私の手紙、躊躇せずに受け取ってもらえればいいですし、それに対して、「受け取ったぜ、元気だぜ」と答えて欲しいだけなのです。手紙を出して、ただそれが受け取ってもらえるという幸せがあります。勿論、その心のこもった返事は受け取ったというだけの返事よりも印象深いですが、しかしながら、受け取ったと答えてもらうだけでも、随分うれしいものです。

2つの意味で、私の帰省の手紙は届いているのだろうか、と考えると、届いていないのがほとんどのようです。物理的には届いているかもしれませんが、心理的には届いていない。あるいは、そもそも物理的に届いていない。ごく一部の手紙を除いては、受け取ったの返事もないのですから、私の気持ちが伝わっていないのだろうと寂しく思います。

2つの意味で、自分の手紙は本当に届いているのか…。折節に出す手紙は別として、それ以外の手紙は、受け取ったと答えてすらもらえないところを見ると、まだまだ私には「届く手紙」の技術が不足しているようです。それは、手紙の書き方文例集に載っているようなものではなく、自分らしく、相手が読んで私のことを思い出してくれて、「受け取ったよ、ありがとう」のメールをくれるような文章を創意工夫せねばならないということです。

結局手紙は届いたのか…正直に言えば、届いていないのでしょう。私が手紙を送った多くの人にとって、私の手紙は心に届くものではなく、ダイレクトメールに毛の生えた程度のものでしかないのでしょう。肉筆は心に届くといいますが、「I love you,答えてくれ!」という悲痛な叫びの中で、単なる肉筆は心には届いていないのだと思います。「受け取った」と答えてくれるだけの手紙を書けるようになるのは、いったいいつのことなのでしょうか。それとも、受け取ったという返事すら出さないような「人間のロボット化」が、もう個人の努力では克服できないほどに進んでしまっている、そんな手紙相手ばかりになってしまったということなのでしょうか。

2010年10月2日土曜日

ホームページ

ホームページの更新をずっと怠けていたので、少しは更新しようかと思い立ちました。

と言っても、ブログを書いているので別にこれに加えて執筆しようとまでは思いません。適当に、気まぐれに、という感じです。

どちらかというと、このブログでやっていることのまとめページみたいな感じになるのではないでしょうか。ブログ全てではなく、シリーズ物をコピーして掲載、という感じでまとめていこうかと考えています。

「応接間」なのに埃かぶっているのは良くない、ということで、掃除することにしました。

2010年10月1日金曜日

プログラミングの"修行"

どうもここ2年ほどはプログラミングを教えることばかりに凝り固まっていたような気がします。自分自身が新しい言語を学ぶことはほとんどなく、新たなアルゴリズムの勉強も結局は教えることを主眼としていたように思います。大会の問題も含めて、多くのプログラミングの問題を解き、また作りましたが、自分の勉強として十分な進歩が見えるものだったかといえば疑問です。2年間で、ソースあたりに費やす時間は多少短くなりはしましたが・・・。

そこで、少し時間もありそうということで、前々からやると言っておきながらほとんど手をつけていなかったJAVAとC++を並行学習することにし、スケジュールを作成しました。まず、初歩的な書籍で基本を学んだ後、上級の、かなり詳しい書籍で徹底的に学習する、というコースです。ほぼ毎日結構な量を課しているにもかかわらず、年内に全部終わるのは無理そうだという、非常に厳しい展望です。

ですが、それぐらいのことをしないと、C以外の言語についてC並の水準で使うのは無理そう、というのもあります。同じ数値計算プログラムを打っても、FortranとCでは必要とする作成時間に大幅な差が出ます。それが私にとっての「修行」です。

Cは簡単な本を読んだ後、詳しい本を読んで、数年間、色々なところから問題を集めたりアルゴリズムを集めたりして、それを記述することによって伸ばしてきました。ですが、JAVAやC++は、これまでのプログラミング経験の下地がある。オブジェクト指向の基本も学習していますから、その下地は心許ないものではないでしょう。アルゴリズムは知っていますし、問題は集める必要もなく揃っています。ですから、ほとんど文法に集中して学習することができます。Fortranもそうでしたが、文法に集中した学習であればそれほど長時間はかかりません。それを考えた上で、「身につける」レベルまでJAVAとC++をやり込みたい、と思いました。

年内では無理かもしれませんが、年度が終わるまでにJAVAとC++は多くを調べずかけるレベルまで(=基本的なところは教えられるレベルまで)達したいと思います。それができたら、新年度になるでしょうが、C/C++,JAVA,Fortranあたりを使った、4言語での徹底演習で、マルチリンガルプログラマーとしての、言語力をあげると同時に、目標としているGo言語の学習にも注力していきたいと思っています。

2010年9月30日木曜日

自分を休みたい日

どことなく疲れがたまっているようなとき、それも体ではなく精神的に疲れているような日、自分自身であることをやめたいと思う日があります。自分ではない誰かでありたいと。

自分よりもまた別の面で優れている人がいるし、逆に自分が他より優れている面だってもちろんある。それは重々承知だけれども、今時分の優れている面よりも他の人の優れている面のほうが輝いて見えるならば、その人になりたいと思うこともあると思います。しかし、何よりも、自分という人間であることに疲れてしまって…それは自分を着飾るのに疲れるのではなく、自分自身の思考や自分自身の行動、自分自身の性格に疲れるということですが…自分以外の誰かになりたいと思う日があるのです。

寝ている間、私たちは意識がありません。そして起きたら、また同じ人間として活動をします。眠る前達哉んであれば、寝て起きてもやはり達哉んです。動いている自分は達哉んでしかないのであって、それは意識がなくなってまた戻ってきても達哉んの他にならないのです。

それが不思議で仕方が無い。寝ておきたら自分という人間が別の人になっていればいいのに、と思うことがあります。達哉んという人間が寝たら、次の日動かしているのは別の人である。そんなことがあればいいのに、と思います。意味が分かりにくいかもしれませんが、ゲームだったら分かりやすい。ゲームで、ある主人公を動かしている。それが、何らかの理由で、別の主人公を動かすことになる。それが日常において起こってもおかしくないのではないか、と言いたいのです。いや、そういうことが起こって欲しいと。運動嫌いの自分ばかりを動かすのではなく、たまには運動の出来る自分を動かしてみたい。万年筆好きの自分ばかりを動かすのではなく、たまには風呂に入ってまでメールに興じる自分を動かしてみたい。達哉んでない誰かを自分としたい…そう思う日があるのです。その時、勿論私は達哉んだった時の記憶なんてなくしてしまうのですが。

いろいろな意見があるのかもしれないけれど、自分でない誰かに、何かになってみたい。そんな思いが、疲れた日に、自分を休みたいという意識となって現れてきます。

2010年9月29日水曜日

タイピングのスピード

実際の数値として自分のタイピングの速度を知っているのは大抵プログラミング等に携わっている人のようですが、それでも速い人ほどその速度を数値として知っているようです。私も一応プログラミング愛好者の端くれ、自分の速度は時折測定しています。

誤打迄入れると面倒なのでそれは無視して、概ね
フルペース(長時間は無理):470type/min
航続可能ペース:400type/min
瞬間最大ペース:550type/min
という感じです。「タイプウェル」シリーズのソフトやe-typing、ハンゲームの「歌謡タイピング劇場」あたりで測定しています。

で、これだけのペースがあれば、通常困ることはありません。一般的な人では概ね200~300type/minあたりが航続可能~フルペースの範囲ですから、上記のペースは一般的な人から見れば1.5~2倍ぐらいの速さになるわけです。

タイピングソフトはフリーでも結構存在しているのですが、上記ペースになるとフリーで楽しめるソフトを探すのに苦労してきます。今使っているのは
・MP3打:元々はQueenの曲で練習していましたが難しすぎるので最近は日本の曲
・タイプウェルシリーズ
・e-typing
あたりです。

タイピングの速度向上はある一定水準を超えるとはっきり言って不要(むしろ腱鞘炎等を防ぐ意味でもやらない方がいい)と思うのですが、それでもある程度速く打てると楽しいもの。速いと自負されている方、↑のようなソフトで練習されてはどうでしょうか。初心者のかたも、e-typingとタイプウェルはおすすめですよ。

※ 航続可能ペースというのは手が痛くならず、長時間連続してプリント作成等をする際と同じぐらいのペースです。私自身はよそ見しながら打てる程度のペース、としています。

2010年9月28日火曜日

万年筆布教論12 「あとがき」

--以下本文--
本文の意図したところは、ロボット化の進む現代において、それを止める一つのツールとしての「万年筆」をよく知る者が、それをどのように広めていくかを示すことにあった。広める手法は唯一無二なものではなく、これ以外にも多数あるだろうが、一つの例示として何らかの道を示すことができたならば本文は及第というところであろう。宣教師として活動している筆者の経験をもとにした論を記すことは、ある種普段学生をみている教師が「学生のつまづきやすいところ」を丁寧に解説することに似ている。これは効果のある場合が多いと考えられるが、逆に教師の自己満足に終始してしまうこともある。本文の内容も同様に、効果のある場合も少なからずあろうが、必ずしもこれがバイブルとして通用するわけではない。そういう意味で、事例を紹介することを主眼とさせていただいた。これにより、少しでも万年筆を使う人が増えれば幸いである。

本文を書こうと思い立ったのは、自分が多数の布教を行っているということと、fuente49号に寄稿した拙文によるものである。その文中で、私は「万年筆は人間のロボット化に対抗するための武器である」と主張した。人間のロボット化というのは、将来的にAIが発展し、ロボットが人間の水準まで達するという意味では当然なく、現在の人間が心というものを失いつつあり、義理や人情といったものを失い、友情を失い、ひいては人間のもっとも強い力である愛情をも失いかねないということである。効率優先の中で、人間を単なるモノとして扱っていないか。私に手紙をくれる多くの知り合いはロボットではない。血の通った人間である。私は、その状況を少しでも長く維持するために、万年筆布教論を記したのである。(なお、その主張をした内容については、近日、ホームページ「達哉んの応接間」に掲載予定である)。

この論を記しているうちに一つ思ったのは、万年筆のハードルは高い、ということである。それは、一本目を買うハードルが高い、というところだけではない。そのハードルを取り除く方法は十全に記したつもりであるが、それだけでなく、情報を集めるのが難しい。雑多な情報は整理しづらく、結果として万年筆についての正確な情報を得るのが難しくなっている。私は、その点の改善を訴えかけていきたいと思う。布教論を一つの課題の完了とするならば、次の私の課題は(インクフロー定数の決定問題を除けば)そういった情報の収集整理に関する論である。活動と言い換えたほうが正確かもしれないが、fuenteやWagnerにも協力してもらい、一つの万年筆データベースを作成したい。万年筆データベースサイトが然るべき形式で仕上がれば、万年筆コミュニティの発展と万年筆会全体の発展に大きく寄与するだろうと確信している。特に「万年筆インプレ広場」はその先駆けであり、それをも内包したより良いデータベースサイトコミュニティを構築したい。私の意見にしか過ぎないが、これを読んでくださるWAGNER会員、fuente会員、その他万年筆関連の人々に協力をお願いしたい。無論これらは、WAGNERやfuenteとは(協力はするが)別の団体活動でありたいと思っている。

最後になったが、本文にお付き合いいただいたことを深く感謝する。
--以上本文--

2010年9月27日月曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その7

41~50位です。

時は流れて:44位。「ホームにて」「タクシードライバー」と並んで父に多く聞かされた曲です。聞いている長さから言えば間違いなく私の人生top3に入る中島みゆきさんの曲です。失恋歌、というのが一般的なのでしょうが、そういう観点からの話はさておき、「時は流れて町は変わった、知ってる顔も少なくなった」に寂しさを感じるのは私だけなんでしょうか。私だって時が流れて変わっていく、かわらぬものなどない…そんな中で、この歌では逢えないままに終わりますが、私は、逢えば何かしら時の流れに変わらぬものが見つかったのではないかと思います。時の流れが逢えないように変えていったとしても、何かしらの方法で悪あがきで逢えれば、もしかすると変わらぬ何かがあったのではないかと。時が流れて、私は変わり、友人も変わりました。私の町にも知っている顔は少なくなりました。でも、そんな中で、ふと会う友人は、たとえ変わっていても、その時間の良さは変わらないのです。

泣きたい夜に:46位。本当に「泣きたい夜に」聞くことの多い曲です。「一人で泣くとなんだか自分だけいけなく見えすぎる」のもそのとおりで、泣きたい夜をよく表しています。…それがもっともっと辛い時、泣きたい夜は死にたい夜に変わり、そんな時、この曲の全ての「泣きたい夜」を「死にたい夜」に変えると、逆になんとなく気持ちが落ち着いてきます。泣きたい夜にしろ、死にたい夜にしろ、誰か他の人に助けてもらうことが大事なんだと言っているような歌詞に思えます。泣きたい夜、「あたしのそばにおいで」と言ってくれる人がいることは大切で、泣きたい夜に、そばで私の話を聞いてくれる友人が、今の通信技術の発達のおかげですぐに話せることで、私も随分救われています。泣きたい夜は誰にでもあって、つらいときに一人でいなけりゃならないなんてことはない。私を気に入ってくれている後輩にいつも言っていることですが「辛けりゃ頼っておいで」と。誰にだって泣きたい夜があって、そんな時、誰か一人いれば、随分と楽になる…。中島みゆきさんが歌っているとおりでもありますし、自分の経験でもそうです。「帰省」ほどではありませんが、自分の心情をよく表現してくれる曲です。

あした天気になれ:50位。矛盾だらけの行動に自分自身の矛盾だらけの心が映し出されるように感じます。ある一方で自分の信念を貫こうと奮闘しながら、その一方で結果として当然得られるであろう好き嫌いの分かれに泣けてきて…。矛盾があるから人間なのかもしれません。雨が好きなのに「あした天気になれ」という矛盾は、あまりにもあからさまな矛盾で、周りから見ればおかしく見えるのかもしれませんが、天気になって欲しいのに雨が好き、飲み会は嫌いなのに飲み会に参加したい、そんな変な矛盾を感じることが誰にだってあるのではないかと思うのです。そんな時に聞いて、矛盾があるのは自然なことだと感じて、その矛盾を受け止める度量をつけねばと思うのです。

2010年9月26日日曜日

万年筆布教論11 「アフターサポート」

長かった万年筆布教論も、この「アフターサポート」と「あとがき」を残すのみとなりました。

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前項において万年筆団体の利用方法を述べ、またここまでの内容でペンクリやインク工房に関する話も断片的に述べてきた。これらを含め、ここではアフターサポートで何をすべきかの総論を記す。

アフターサポートと聞いたとき、布教者はどの程度のことができるか、また、すべきことはどの程度か。まず、布教者はメーカーでも販売者でもないことから、ペン先の交換等はできないし、修理保証もできないということは妥当であろう。一部の調整技術に長けた人は別として、一般にそういった修理・調整技術がある状況は珍しい。

その場合、できることは限られてくる。情報の提供・取次がそのほぼ全てと言って良い。だが、そこにこそアフターサポートの意味がある。アフターサポートとして布教者に求められる最重要たる部分は、情報なのである。技術面での提供はメーカーや一部の販売店、あるいは万年筆会認定調整師に及ばない。布教者がそれらに勝るのは購入者からの連絡の取りやすさの点である。そこで、その連絡の取りやすさを生かした情報の提供こそがポイントとなる。得意なところを活かせ、ということである。

概ね、次の情報は誰に対しても必要である。
・何らかの問題が生じた時の対処方法
・消耗品の購入先(インクやコンバーター)
・洗浄方法
・2本目以降の勧め
・贈答等による他の万年筆購入の勧め
一方で、これ以外の情報は臨機応変に、必要に応じて小出しに与えていけばよい。そもそも万年筆の世界はすぐさま語れるものではないのだから、語れる部分から語っていけばよいのである。

上記以外に、関連商品の紹介(紙製品やシーリングワックス等)も有用であるが、これは布教者によって知識量に大きく差があり、また好みの問題もあろうからこれは出来る範囲で良い。万年筆の利用に関する情報は一通り与えられる、それが布教者のアフターサポートである。

ムダに多いアフターサポートではなく、出来る範囲でのアフターサポート。これがあるだけでも、万年筆の世界に孤立せずに済む意味で違いがある。将来的に万年筆の世界で一匹狼になるにしろ付き合うにしろ、まず基本的な知識は雑多な中から収集していくのではなく、体系的に与えてもらえたほうがよほどハードルは低くなるためである。

最後に、一つ重要な点として、アフターサポートは1本目までを旨とすべし、ということを述べておく。2本目以降については布教者の好みを反映させることなく、個人的な好みで選んでもらうほうがずっといい。そういう観点から言えば、1本目こそ口出しするものの、それ以降は最低限の情報だけを出して、自主的に行動してもらえばいいのである。そして同時に、その自主的な行動までいった人は、もうすでに布教対象としてではなく、万年筆仲間として扱えばよいのである。
--以上本文--

一通り「布教者として何をすればいいか」は述べたつもりです。

2010年9月25日土曜日

俗物を育ててはならない

タイトルは、今年私の母校を去られた恩師が同窓会誌に書かれていたもの。その文章の真意はまだまだ捉えられないのかもしれないけれども、結果主義で教育を評価するだけではいけないという先生の意見に賛成しています。

受験の結果は大事かもしれません。部活動の結果も大事かもしれません。でも、それだけが学校か、と思います。受験の結果が大事なら塾で十分です。部活動の結果が大事なら学校の部活でやらなくてもクラブチームとか巷間の同好会でやればいいのです、人数が集まるかどうか分からなかったり設備が不十分だったりする学校でやるぐらいなら。

学校は、受験の結果や部活動の結果だけではその存在意義を確立できないと思います。それらが重要でない、と言っているのではなく、それらが全てではない、と言っているのです。学校で大切なのはそんな結果だけではなく、いろいろな行事も含めた人々の間の交わりや社交性の成長、あるいは道徳心の向上ではないかと思います。

小学校や中学校。私はたまたま要領がよく、また、塾などの勉強の甲斐もあってか、テストの成績は優秀と言われていました。だからといって皆からの信頼が得られたわけではなく、むしろ信頼などないに等しい状況でした。その頃のことを知っている人は、今や自分の友人のごく一部にしか過ぎませんから、ここ5~6年に出会った人は皆その話を聞いて驚きます。そんな私が一番覚えているのは授業の内容ではないのです。授業の内容なんてほとんど忘れていて、むしろ道徳の授業…皆が馬鹿にし、軽視されることもありますが、その道徳の授業こそが一番残っているのです。その頃のことが今の自分の信念を形作っています。

結果主義は見やすいかもしれません。でも、それだけでいいのでしょうか?賢い大学で麻薬の問題が多いなどと聞かれることがあります。未成年飲酒をしていない大学生なんてほとんどいないと言う意見を聞いたこともあります。それは、道徳教育において、正義感や自尊心という部分を育てられなかった人間ではないかと思います。正義感や自尊心があるなら、「正しくないこと」はやらないと思うのです。勉強をしている人たちのことですから、法律的にまずいことを正しくないと思うことでしょう。それでもこんな問題が出るということは、正しいことを押し通すだけの「心の勉強」が足りていないのではないでしょうか。特に麻薬等、科学的に害のあることが分かっているのですから、自らを損なうと「できる人々」ならわかっているでしょうに。

別に私だって偉そうなことを言えたことではありませんが、しかし、結果だけを見て勉強していてはいけないし、教える側も結果だけを見てはいけないと思います。心の問題に完全な正解はないし、教師が必ず正解を与えられる問題なんてものもありません。でも、考えることは大切なのではないでしょうか。心の問題として、生き方の問題として、物事を考える時間を取ること。決して結果主義とは結びつかないでしょう。結果をあげることもないでしょうし、教養が身につくかどうかといえばそれもまた違う方向でしょう。それでも、考える時間を取ることが「俗物を育てない」教育に結びつくのではないでしょうか。

学校でマインドコントロールせよと主張しているのではありません。色々な題材を素に、自分を見つめ直してみる時間をとってみてはどうか、と言いたいのです。

大人でも難しい問題だとは思いますが、電車の駅の階段で、転がり落ちた女の子と、突き飛ばした女の薄笑いを見たら、貴方はどうしますか、そしてそれを実際に行動に移せますか?…その問の答えを突き詰めることが、自分を見つめ直し、ひいては「俗物を育てない」教育に結びつくのだと思います。

先生の「俗物」が何を意味するのかは私には計り知れないのですが、結果だけを見るのを俗物というならば、私も俗物を育ててはならないと思うのです。

2010年9月24日金曜日

fuente50号と記念冊子「fuenteに寄せて」

万年筆布教論が10回になったので、また少し休憩を挟みます。今日の話題はfuenteです。

今月中旬、私のもとにもfuenteのNo.50「今を 楽しんでいます」が届きました。毎度毎度寄稿させてもらっているほか、50号記念冊子もあるということで大変楽しみにしておりました。

普段さらさない手書きを晒すということで、周りに比べてひどく悪筆の私、情けなくなりましたが、「悪即個性筆也」ということで気を取り直し、じっくりと読みました。50号自体もいつものように、いやいつもより深く楽しみましたが、万年筆の面白さをまた味わった次第です。

その内容として、私が少し違和感を覚えたのは、スローライフと現在のデジタルメディアとの対比です。fuenteの形式が変わるべきかどうかなどということは無益なので言いませんが、現在のデジタルメディアの衰退を確定している人は多いし、また、それの根拠となることも多く言われています。しかし、デジタルメディアそれ自体は一つのデータ集約法として優れていて、また、その速度などの効率面でも優位です。良い・悪いではなく、性格が違うものである、ということです。

私はfuenteの形式の変更を唱えられたら即反対します。今の形式で良い、と。一通一通丁寧に送付していただける今の形で良い、と。ですが、fuenteやWAGNERとはまた別で、何らかの情報サイト、あるいはそれに伴う倶楽部を作ることが出来れば、共考えています。

fuenteを始めとしてあちこちで主張されている通り、現在万年筆情報を手に入れるには事欠かない状況です。ただ、その情報はあまりにも散逸している、というのが私の印象です。WAGNER入会までは結構な苦労を要しました。これらを集めたデータベースサイト等を万年筆のクラブにも協力してもらって開けないか、というのが私の主張です。万年筆の知識のある人ならば多くが編集できて、なおかつ情報のまとめに良いデータベース。色々な万年筆関連の人の交流に役立つブログを含むリンク集。後、簡易な掲示板や会議室なんかをつけてもいいかもしれませんが、そういったシステムをネット上に構築し、それを万年筆好きで運営できれば、と思うのです。これには、次のような狙いがあります。

1.万年筆愛好家が互いに情報を交換しあうこと。匿名で、あるいは情報の利用だけで「つるまない」人もいていいし、書き込んだりして広めようとする「つるむ」人もいていい。
2.万年筆初心者が万年筆に手をだそうとするとき信頼できる情報を提供すること。裾野を広げる実際活動は簡単にはできないことから、まずはハードルを下げることに重点を置きたい。
3.万年筆メーカーが各種の告知を行ったり、逆に万年筆メーカーが意見を汲み取るための場所として利用すること。定数の人間が参加しているコミュニティならばメーカーとしても無視しづらいのではないでしょうか。

これらシステムの構築、どうでしょうか。fuenteにも書いたのですが、興味のある方、よろしければ(このコメントでも結構です)、ご一報ください。

2010年9月23日木曜日

あの時の選択が違えば

ただひとつの選択が人生を大きく変えることはよくあることで、よくあることだからこそ些細に見える選択も十分に検討しなければならないのだと思います。

「あの時の選択が違えば」と思うことがあります。それを知ることが出来ればよいのに、と思うのです。そうして、それが間違いだったと思ったら、前車の轍を踏まぬよう、自分史に綴っていけばいいのです。そうしてできた自分史が増えていけば、人生の指針となる本は随分増えるように思えます。

私の今の人生は、中学の時の部活動の選択が大きなファクターとなっています。でも、もしあのとき、私が長続きしないだろうと思って諦めた運動部に入っていたらどうだったろうか。バスケ部なら、バレー部なら、サッカー部なら・・・色々考えてしまいます。高校のとき、運動部に入ろうかと思って、でもスポーツ校だと言われることのある学校だからと、運動部の選択肢をはじめから捨てました。私がその時選んでいたら?多分途中でリタイアしていたのでしょう。大学に入ったとき、初めて運動部と名のつくものに入部して、でもそれはすぐにリタイアして・・・。続けていれば、今はどうなっていたのでしょうか。少しは疎ましがられなかったでしょうか。

部活動の例を多く出しましたが、私の今の人生にそれがすごく強い影響を及ぼしているためです。中学の部活の時に母に言われた「途中で投げ出すな」、今にいたるまで、最低一つはやり通していますが(兼部しているうちのひとつだけは貫いている、ということですが)、そのやり通すものを変えていれば今の自分はどうなっていたかわかりません。

高校のとき、ほんの少し、演劇部に入っていたこともありました。生徒会執行部に入ろうと思い立って、「ノリ」のような感じでやめてしまいました。あまり好きではなかったのもありますが、面白さを知る前にやめてしまったのは否めません。続けていれば今どうなっていただろうかわかりませんが、それを知ることが出来ればなぁ、と思います。

あの時の選択が違えば…その「違う選択」の先を知ることはできません。でも、過去の選択を変えてみて、今どうなっているかを知ることが出来れば、それは後悔を強くするのかもしれないけど、人間の知恵として何かしら生きていく指針となるのではないかと、そう思います。

あの時の選択が違えば今にいたるまでどうなっていたかを知ることができる、そんな道具があればいいのにな、と思います。

2010年9月22日水曜日

万年筆布教論10 「万年筆団体と布教」

第10回は、fuenteやWagnerといった、万年筆関連団体の布教における利用方法を述べます。

--以下本文--
万年筆関連団体は複数あるが、それについて、一般的にいって初心者にはハードルが高いものである。その利用方法があるのかどうかという点については疑問の余地があるかもしれないが、ものは使いようである。ここでは、各種団体の利用方法について、布教という観点から述べていく。

大きく分けて、会合を開催してそこで実際に会うことを中心とする会と、それぞれが情報を交換しあうことを主体とした会が存在している。前者の代表例としてはWAGNER、後者はfuenteだろう。

前者についてであるが、自分ひとりではなく多くの人が意見をすることにより客観性を示すことができる。ある一本のペンをすすめるのでも、多数が良いと意見する方が(日本人の一般的な心理として)購入しやすい。そのような意見を得ること、また、ペントレ等により良いペンを安く購入すること、しかるべき処置を受けられること(ペンクリ等)がこういった「集まる会」の利点である。一方、これらの会に参加する初心者はほぼ確実に気後れするので、布教者はそのフォローを要求される。まず、自らの知り合いと話し、上手に話の場を提供すること。それから順次、環(和)を広げていく。そうして、会話を弾ませた上で、ペントレがあるならその購入まで含めて行う。

後者についてだが、こちらは初心者には勧めにくい。一本目購入後に万年筆の世界により深くはいろうとする場合には妥当であるが、万年筆を知らない一本目購入者には少しハードルが高いし、また、利用も難しいところであろう。興味を出させるのに用いる、という意見もあるかもしれないが、集団であるがために「好きな人がやっているものだ」と感じられてしまっては逆効果だからである。

一本目購入までに万年筆団体を利用するとすれば、それは実対面で購入やペンクリがあるものを中心としたほうが無難である。逆にハードルを上げてしまいかねない。一本目の後の役割は大きく担うが、その前に、まず一本目という場合には団体のできることは少ない。個人交渉を旨としたほうが良い。

団体は「好きな人が集まっている」という印象からどうしても抜け出せない。それを逆手にとって、知識やブツでいいものがある、という利用の方法でなければ、初心者には厳しい。そのことを理解した上で、使うのであれば、ペントレのある会で、ペントレ中心だろう。
--以上本文--
団体にとってはあまりプラスではない意見ですが、こればかりは仕方がない場所があると思います。私自身は団体に所属していますから、もっとプラスに働けばいいと思いますが、なかなかその壁は厚いようです。

2010年9月21日火曜日

横で紅茶を飲みながら

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
パソコンの時も
ペンの時も
何か読むときも
誰かと話すときも
心辛くて歌に逃げ込むときも

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
その日何を淹れるかは
目についたものの時もあるし
味の気分の時もあるし
リクエストの時もあるし
もしかしたら賞味期限

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
ふと見ればもう5杯
数時間しかたってないのに
何度もお湯を沸かして
毎回違う産地のもので
何度お湯を汲みに行ったろう


気づけば淹れて
気づけば飲んでる
飲みたいと強く思って飲む時と
気づいて飲んでるとその時は
選ぶお茶が違う
一級と言われるお茶や
自分が好きでも手に入りにくいお茶
初めてのお茶は
居住まいを正す

気づけば淹れて
気づけば飲んでる
そんな紅茶は
私のお茶では格下でも
味は逸品だ
それは邪魔することなく
文書くときに後ろでながれるBGMのように
意識しない美味しさだ

2010年9月20日月曜日

万年筆布教論9 「布教調整論」

万年筆の布教にあたって重要な、「調整はどの程度行えばいいか」について記します。

--以下本文--
現在の万年筆愛好者にとって調整の利用はそれほど特殊なことではない。一本のペンを愛用し続けてペン先が紙によって僅かずつ擦れていき自然とスイートスポットが…というような現象を味わう人もいるだろうが、少なくとも、調整という発想を特別なことと捉える人はいないのではないだろうか。この調整だが、調整も万年筆布教論で重要な位置を占めるものである。調整販売の店の場合はなおさらである。ここでは、布教者としての調整の立会い方と、調整はどの程度行うべきかということについて記す。布教者=調整者の場合にも応用がきく。

まず、調整を行うべきかどうかという点についてだが、これは呼び水のペン、購入ペンを問わず行ってよいだろう。但し、生贄のような楽しみ方はせず「万人受けするペン先」にしておくのが望ましい。できれば「本来出荷時にはこうあるべき、あって欲しい形」にしておく。検品されていた頃の万年筆のように、どれをとっても書き味よく、誰が書いても書き味よく、という調整を心がけたい。これは、書きぐせがまださだまっていないことに由来する。

万年筆を使い始める人、あるいは使い始めて長くない人は書きぐせが安定しない。半月で80度から60度に変わった、というような事例もある。そこで、書きぐせが変化したとしても書きやすさを保証するようなペン先とし、書きぐせが定まってくるまではどのように書いても大丈夫なようにしておくのが良いのである。この過程で、万年筆使用者は自分にぴったり合う筆記角度を模索する。

この状態のまま使い続ければ安定してくるので、安定した後はその人に完全にあわせてしまってもよいだろう。だが、初期段階では「一箇所の満点より多数の高得点」を旨として調整したい。書きぐせが定まるまではそのようにしたいし、極論、はじめのペン先の状態さえよければあえて手を加えず、完全に筆記のみで調整してしまってもいい(勿論時間はかかるが)。僅かながら、しかし確実に、手になじんでいく感触は、マニアに限らず感じ取ることのできるものである。

このような調整をお願いした上で、布教者は何を言うべきかといえば「書いていてストレスに感じる部分はないか」ということである。通常の試し書きをしてもらい、それでストレスに感じるような部分がなく、手が疲れない事。それ以上の書き味の評価などは求めても無意味である(それだけの評価基準がないことは先述したとおりである)。とにかく、自分の筆記に置いて一切のストレスがないこと。「良い」のではなく「及第」であるのを目指す。ストレスがない、というのは非常に重要なファクターであり、これは「マイナスではない」ということのみを示すのであって、プラスであるかどうかは気にしていないのである。プラスについては無視し、徹底的にマイナスをなくしてしまう、そんな調整を促すように超えかけをせねばならない。その分かりやすい最たる例が「ストレスなくかけるか?」なのである。
--以上本文--
pen and message店主氏とも同様な話をしたものをまとめました。

2010年9月19日日曜日

「誰も書かなかった中島みゆき論」ベスト200を聞いてみよう その6

31位~40位です。もしかしたら「いかにも」な選び方になっているかもしれませんが・・・。

歌姫:31位。「寂しいなんて口にだしたら誰もみんな疎ましくて逃げ出してゆく、寂しくなんかないと笑えば寂しい荷物方の上でなお重くなる…」これほどまでに「寂しい」という荷物の処理の仕方を端的に表した文章は見たことがありません。なまじっか「寂しい」と言っても、まだ付き合って日の浅いような人であればただ逃げ出してゆくばかりだし、と言って強がってみてもしんどいばかり。古巣に戻って寂しいといえば疎ましがらず逃げ出さない人がいますが、それが私にとっての「歌姫」なのかもしれません。決して歌が上手いという意味ではなく、一緒に話すことで、その人の言葉を(私はお茶ですが)飲み干すことで、少し淋しさがなくなるような、そして自分の今いる場所が明確に見える気がするのです。それが「遠ざかる舟のデッキに立つ自分が見える」ということなのではないでしょうか。

幸福論:35位。「他人の悲しみをそっと喜んでいないか」、かなりぐさっと来た一節です。ふと気づけば、夜、眠れない夜に特に多いですが、ふと他人の悲しみをそっと喜んでいる自分がいます。もし、「幸福量保存則」が成立するならば、エゴを承知で言いますが、他人の悲しみの分だけ自分の幸福が増える可能性がある、と。これと対照的なのがのび太の結婚前夜の名言です。しずかのパパの発言に、「のび太は他人の幸福を喜び他人の不幸を悲しめる人間である」と言うものがあります。これは一件単純そうに見えて、ものすごく難しいことです。能力や運に恵まれない例としてよく出るのび太ですが、それでももっとも人間として素晴らしい部分を体現している。勉強などで優等生と言われることもありますが、私はそんな成績の良い人間よりも、のび太のように馬鹿にされても、人の喜びを喜べて、人の悲しみを悲しめる人間でありたかったのです。その「人」が今はまだ限定されているけれど、その限定が解除される日があれば…そう感じる曲です。

狼になりたい:36位。狼は現在においては「肉食系男子」にでも例えるべきなのかもしれませんが、私はそうというよりむしろ、孤高な、「一匹狼」な気がします。一匹狼で生きて行きたいと思うのに、なんだかんだでしんどくて、今日も酒を煽る自分。しんどいな、って思う中で、本当に孤高に耐えられる一匹狼になりたいという痛切な叫び。それが私の、この歌に対する感情です。酒に溺れてやりきれない現実をどうにかしようとする主人公や「向かいの席のオヤジ」。孤高に耐えられる一匹狼ならば、そんなことをしなくていいのかもしれないけれど…。狼になりたい、孤高に耐えられる…。「人形みたいでもいいよな、笑えるやつはいいよな」っていうのが、「いいことしてやがんのにな…」というのは、人形みたいに「いいこと」をただしているだけで笑っていられるやつはいいよなぁ、と、自分の信念を貫こうとしてどこまでも生きたいと思う自分の弱さよりもよっぽど幸せそうだなぁ、と、そう思っているのではないでしょうか。一匹狼になりたい。孤高に耐えられる一匹狼に。自分の信念を貫き通す人間ならば、それが一番幸せなのかもしれないと感じさせられた作品です。